第1巻と第2巻とあわせて24曲の前奏曲。バッハやショパンのジャンルに言及することで、後年に練習曲や器楽のためのソナタを書くことになるドビュッシーが晩年に足を踏み入れたともいわれる曲集ですが、同時にドビュッシーは自身の過去の作品にも言及していたのではないでしょうか?
その過去の作品とは管弦楽のためのひとつの「前奏曲」。大詩人マラルメの『牧神の午後』の舞台化計画が持ち上がった際に、マラルメ自身から話を持ちかけられて舞台の付随音楽として構想され、1892年に『牧神の午後への前奏曲』として完成。初期ドビュッシーの代表作であるばかりではなく、音楽がいち早く20世紀の舞台に移った画期的な音楽であるとされる傑作です。
ここで24の前奏曲に話を戻しましょう。これらの前奏曲には、「亜麻色の髪の乙女」や「月の光を仰ぐテラス」などのような言葉が添えられています。その言葉は、もしそれが表題であれば楽譜の冒頭に掲げられるのが一般的でドビュッシーも以前の『版画』や『映像』ではそのようにしていたのですが、この前奏曲集の場合は楽譜の最後の音のあとに「. . .La fille aux cheveux de lin」という形で、あたかも音楽がその言葉に吸い込まれていくような形で記載されています。
ここでドビュッシーと「言葉」について、少し考えてみましょう。
ドビュッシーはまだ10歳にならない頃にアントワネット・モーテ夫人の元でピアノを習い始めます。このモーテ夫人はショパンとも親交のあった人といわれていると同時に、マチルド・モーテの母でした。マチルドは言わずと知れたポール・ヴェルレーヌの妻で、マチルド・モーテに出会ったヴェルレーヌが代表作である『優しい歌』を書いたのがこの前年のこと。
まだ9歳だったドビュッシーがヴェルレーヌの詩を読んだとも考えにくいのですが、ショパンとヴェルレーヌが生活し、音楽と文学が常に隣り合わせにあるパリの芸術界に実質的に足を踏み入れたはこの時であったのです。
モーテ夫人はドビュッシーの才能を認め、ドビュッシーは10歳の時にパリ音楽院に入学することになります。
マラルメの「火曜会」に作曲家として唯一出入りし、ボードレールの解釈においてマラルメの注意を呼び起こし、やはり「火曜会」に出入りしていたピエール・ルイスやポール・ヴァレリーらとも共作の話題に事欠かなかったドビュッシーにとって、言葉は決して音楽以下のものではなかった。そのことだけはここで強調しておきたいと思います。
「前奏曲集」のそれぞれの曲のあとにそのドビュッシーが付け足した言葉。そこには表題や仄めかし以上の意味があったのではないでしょうか。
『牧神の午後への前奏曲』にマラルメ作品の付随音楽という以上の意味を見出す必然的な状況がある以上、言葉の前にある音楽はやはりその言葉への「前奏曲」なのではないでしょうか。そのように考えることで、音楽だけが持つ意味そして世界はかえって大きく広がるのかも知れないと考えました。
ドビュッシーの『前奏曲集』を全て、しかも島田彩乃さんの演奏でお聴きいただける特別な一夜です。是非聴きにいらしてください。
終演後にはドリンク片手にお寛ぎいただけるレセプションをご用意致しますので、土曜日の長い夜、是非楽しみにしてご参加頂けますと幸いです。
皆様のご来場をこころよりお待ちしております。
― カフェ・モンタージュ 高田伸也