ブゾーニ、ゲーテ

大きすぎて、捉えどころがない。

まずそのフルネームがすごい。
ダンテ・ミケランジェロ・ベンヴェヌート・フェルッチョ・ブゾーニ
つまり Dante Alighieri / Michelangelo Buonarrotti / Benvenuto Cellini / Feruccio Busoni

生まれた時から法外であったブゾーニは、ピアニストとしては7歳でデビュー、8歳でモーツァルトの24番のハ短調協奏曲を弾き、翌年のウィーンデビューでハンスリックに認められたあと、一生を通じて比類のないヴィルトゥオーゾとして君臨し続けたことは誰でも知っている。

そして作曲家としてのブゾーニがいる。
これも7歳で作曲を始めてから20歳までの間に200曲を優に超える作品を書いた。バッハのオルガン作品の編曲など、今でも有名な仕事をした後、1900年に長大なヴァイオリンソナタ第2番を書き上げて、自らのそれまでの作品を無効とした。

ブゾーニ自ら、これが作品1であるといわしめたヴァイオリンソナタ第2番は、ブゾーニ自身の一生のみならず、それまでの西洋音楽の全体を包括し、その後の音楽の行き先を指し示す内容を含んでいるとされる。しかし、説明はいつもそこで止まっている。
たぶん、狙った的が大きすぎるからだ。

1900年以降のブゾーニの作品を聴くと、これ以上のものは生まれ得ないものを聴いているという壮大な感動と同時に、これが果たして世紀の大天才による創作物かというキッチュを目の前にしたときの震えが一度に襲い掛かってくる。この不思議な感覚、この不安と戸惑いを解消してくれそうな評論、説明がなかなか見つからない。

いまだに人を惑わし続けるブゾーニとはどのような思想の持主であったのか。

ブゾーニの思想に近づく鍵はいくつかある。まず、彼が最大限に尊敬をしていたフランツ・リスト。
ブゾーニは西欧音楽の集大成をすでにリストに見出していたということであるが、それはリストのヴィルトゥオーゾの面はもちろん、彼の他に類を見ない博学に対してのものでもあった。

バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、ロッシーニ、ベルリオーズ、メンデルスゾーン、シューマン、ショパンというおよそ古典音楽の生成の流れの中心といえる位置に自らを置き、その存在を19世紀を通して示し続けたリストの音楽は、それ自体がすでに歴史を包括する内容を持っている。

ブゾーニは、バッハの音楽が常にリストの作品の中に響いていることを確認し、それがメンデルスゾーン、ベートーヴェンと遡って観察した際にも同じであることをかなり若い時期に理解した。そして、自らの興味が作品自体を通り抜けて、それらの作品の生成過程の観察へと向けられていった。

植物はなぜこのような形をとっているのか。
ゲーテは植物が成長とともに変容する有様をつぶさに観察し、その生成のモデルとなる原植物(Urpflanze)という理念を持つに至った。ゲーテが科学において貫いた思想は、そのままブゾーニの思想につながっている。

つまり、ブゾーニは過去の探求をバッハほかの作品を編曲する中で、それら過去の作品がいわば変容を続ける植物のように世代を経て、形を変えてきたものだととらえるようになった。そして、原植物ならぬ原旋律ともいうべき思想を以下のように明らかにしている。

〈旋律とは〉
上行・下行を繰り返す音程の列 であり、リズムを伴って構成され、それとともに動 き、潜在的な和声を含有し…形式の点で伴奏声部から独立して存在することができ、演奏において楽器の選択がその本質に変化を及ぼさないもの… (「音楽の単一性について」ブゾーニ 1922年)

ブゾーニは、どのような性格の音楽にも絶対旋律が潜んでいて、それらは必ず、以前に別の形態をもって存在していた旋律がメタモルフォーゼ(変容)したものだという思想を持っていた。
その横顔は、植物において花弁を葉のメタモルフォーゼであると喝破した、ゲーテその人を思い起こさせる。

(ところで、ブゾーニは名前こそトスカーナ人のそれであるが、ドイツ人とイタリア人のハーフでドイツ語は堪能であるどころか高度の母国語であった。そして、その作曲と文筆活動における最重要の部分はすべてベルリンにおいてなされている)

ゲーテの「形態学」を頼りにブゾーニが自らの音楽理論を打ち立てたといえば極端かもしれないが、ブゾーニが自らの活動においてゲーテを意識していたことは彼の言論や作品からも想像に難くなく、現にいくつかの論説の中でもゲーテとの関係が言及されている。

ゲーテは、その場の知覚だけでは捉えることのできないものを、自らの美的興味と気長で緻密な観察でもって記述しようとした。そのゲーテ流の自然科学は「植物変態論」や「色彩論」など、今でも重要な意味を持つ著作となって世に出た。

メタモルフォーゼ(変容)とは、ほぼゲーテによって広められた概念である。ブゾーニはおそらくゲーテの思想をそのまま音楽にも見出していた。以下、ゲーテの文言がそのままブゾーニの音楽思想に直結すると思われるものを書き連ねていきます。

「ある有機体が現れてくる場合、形成衝動の統一と自由はメタモルフォーゼの概念なしには把握できないのである。」…(ゲーテ『科学方法論』)

「自然は永遠に新しいもろもろの形態を創る。いまあるものが、かつてけっして存在しなかった。かつてあったものが再び来ることはない。―すべては新しく、しかもつねに古いものである。」…(ゲーテ、同上)

「宇宙をその最大の延長において、またその最小の分割部分に置いて考察するとき、われわれは全体の根底に一つの理念があり、それに従って ― 永遠から永遠へと創造し活動を続けているという観念を禁じ得ない。」…(ゲーテ、同上)

かくして、ブゾーニは自らの音楽の原型となる過去の作品を様々に引用し、時にはその過去の作品の原型をさらに考察した旋律を自作に取り込み、そのメタモルフォーゼしたものとしての未来の音楽を提示しようとした。
ヴァイオリンソナタ第2番はその取り組みが実を結んだ初めであったのである。

ヴァイオリンソナタ第2番ではまず、冒頭でピアノとヴァイオリンによって繰り返されるベートーヴェン(おそらくチェロソナタ第4番)を思わせる主題を提示してから、それがAis-Cisの2音による最小の旋律からの変容であることを20小節で明らかにする。

主題は再びリズムと上下運動による変容を繰り返し、ドビュッシー晩年のソナタを思わせるような形態さえ見られるようになる。そのあと、様々な主題提示があり、それらがごく単純な上下する律動からバッハのコラールに変容し、第3楽章でベートーヴェンの作品131の歓喜に辿り着く。

長大な第3楽章では、変容は微視的なレベルに引き伸ばされ、ベートーヴェンからバッハの1番ヴァイオリンパルティータ、そしてシューベルトの幻想曲などの原型に迫った後、2音による最小形態の旋律が新たに出現するまでを描く。

つまり第1楽章冒頭においてたったの20小節で辿ったメタモルフォーゼの観察を、20分に引きのばして、ミクロの世界における壮大な音楽の旅を企てたのが第3楽章だということになる。リストの行ったパラフレーズの概念を、ブゾーニのヴァイオリンソナタ第2番は遥かに押し進めている。

ブゾーニは晩年の未完の大作「ファウスト博士」において、ゲーテのファウストに魅了されながらも、その「原植物」をたどるために、ゲーテが参考にしたという人形劇の台本を手に取った。そうしたブゾーニの形態学的傾向は、すべてが単一性に集約されるという、壮大な哲学的命題をもったヴァイオリンソナタ 第2番において顕著である。

ブゾーニは、ヴァイオリンソナタ第2番をいわば碩学的な堅苦しい音楽作品とせず、器楽による劇場音楽としてのユーモアを最大限に発揮させて完成させた。そこではベートーヴェンもバッハもシューベルトも、乾いた笑いを発しながらスカルボのように跳躍をしている。

ゲーテはカント哲学に魅了されながらも、著作物そのものを取り入れることなく物事の源流を遡るに至った。

「理念は時間と空間に依存せず、自然研究は時間と空間に限定されている。我々が理念に即して同時的かつ継起的であるような自然作用のことを考えると、一種の狂気に陥りそうな気がする。‥ 理念と経験の間には一定の間隔が厳然として存在していて、いかに全力を尽くして飛び越えようとしても無駄である。この深い感覚を理性・悟性・想像力・信仰・感情・妄想をもって、もしほかにできることがなければ荒唐無稽をもってしても克服すること。―永遠に努力してやまない。」

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2016年 10月8日(土) 20:00開演
「F.ブゾーニ」 – 生誕150年
ヴァイオリン: 谷本華子
ピアノ: 奈良田朋子
http://www.cafe-montage.com/prg/161008.html