ドビュッシー、ワーグナー

ドビュッシーが、こちらに歩いてくる。
「何も知らない」と彼は言う
1880年、フォン・メック夫人を通してチャイコフスキーの白鳥を手に入れた18歳の彼は、一人森の中へ消えた。

1888年、ドビュッシーはバイロイトにいた。そこで目にした聖杯伝説が、まさにこれから自分の身の上に起こることと同義であると確信していた彼は、迷うことなく聖杯を探す道を歩み続けた。

1889年、ドビュッシーはパリ博覧会でガムランの音響を耳にし、ワーグナーがショーペンハウエルを通じて、仏教に惹かれたのと同じ引力を感じ取り、さらに深い森へと分け入って進んでいった。

ドビュッシーは、ワーグナーのパルジファルについて、指輪「四部作」の天才的な否定であり、それがゆえに「常に感謝しなければならない」と述べている。その言葉の重さについては、パルジファルを研究し未来の音楽を作ったドビュッシーと、グスタフ・マーラーの名前を挙げるだけでは足りないだろうか。

マーラーは交響曲「巨人」の最終楽章、まず展開部冒頭でパルジファルの聖杯の動機を用いたあと、コーダ前の最高潮に達する契機として、深く印象に残る形で聖杯を掲げている。同じ時期、ドビュッシーはパルジファルの花の精を想起させる、マラルメの「牧神」の音楽を書いた。

聖杯の物語において、聖杯はもはや杯である必要はなく、その選ばれし「無知な勇者」の探求と自己犠牲のもとに世界が治癒されるという物語の設定のみが重要なので、それがゆえに今でも様々に異なった形で新たな物語が生み出される源泉となっている。

ドビュッシーをを否定するには、まず彼のことを「フランスの音楽家」と呼ぶことである、と書いたのはピエール・ブーレーズである。ドビュッシーは「バッハこそが聖杯である」と書いた。

そして、「ワーグナーはその聖杯を踏みつぶし」、「リヒャルト・シュトラウスについてドイツ音楽の中では例外的にワーグナーの影響が全然見当たらない」とドビュッシーが書き続けたとき、彼の意図したところは何だったのであろうか。

パルジファルの花の精の音楽。
「フランス音楽」と多くの人が呼びたがっているものの、どれほど多くがここに息づいていることか。そもそもベルリオーズが「フランス音楽」であったのか。‥そうかも知れない。こうして聖杯の伝説は様々に形を変えていく。

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2017年2月25日(土)20:00開演
「C.ドビュッシー」
ソプラノ:谷村由美子
ピアノ:塩見亮
http://www.cafe-montage.com/prg/170225.html