ウィーンの風景

見るべき風景がある。
街の中で、風景を作り出すものは何か。
ウィーンが、中世以来のハプスブルク城壁の街から、リング大通りの近代都市へと変貌する中で、二人の指導的な建築家によって二つの風景が描かれた。

オットー・ワーグナー
人に、進むべき方向の確かさを認識させて、人の流れに美しい運動を与えること。その生活そのものが街の風景なのだ。街は適材適所の職場と住宅、それらを華麗に繋ぐ路によって美しく区画されるべきである。

カミロ・ジッテ
人を迷わせ、立ち止まらせて、自分を取り囲む一切を振り返る動作を人に与えること。その所作の美しさが街並みと溶け合わさったときに、人はそこに風景を見出す。
街の中で人は、幾度も立ち止まることによって目を開き、自らの生活と美が隣り合わせであることを知ることになる

芸術を現代の感覚に引き寄せることと、現代の感覚をかつての偉大な芸術の形に引き寄せること。ウィーンという街は、そのどちらの精神を長い時間をかけて呑み込んで、次の時代に向けて動き続けてきた。いまの京都で「ウィーン音楽祭」をすることの意義を今一度問いたい。

フランス革命とナポレオンの到来と同時にロマン派の時代が始まり、1848年革命とマルクス・エンゲルスの到来と同時にロマン派は過ぎ去った。それからおよそ15年後、ヨハネス・ブラームスの到着をもって、再び音楽に置ける中心はウィーンに向けて動き出した。

ブラームスがウィーンに来たのは、ウィーンの新たな都市計画の最初の成果が見え始めた1862年のことである。その少し前に、ブラームスは一つの決定的な事件を起こしていた。

シューマンの死後、そのあとを継いで「新音楽時報」の主筆となったフランツ・リストの弟子が、ワーグナー、リストそしてベルリオーズという三人を話の中心に据えて「新ドイツ楽派」だと持ち上げて、ベートーヴェン以降のロマン派を価値無きものとしてアピールしていた。

物事を全て新しいものと古いものに分けて捉えようとする革命の時代においては、そのような無茶な論説(リストは仕方がないとして、ベルリオーズまでもが…)も一定の賛同を得ていたところ、シューマンの遺産がそのように扱われていることに、ブラームスは異議を唱えた。

1860年 ブラームスはヨアヒムほかの署名を集めて、ベルリンの新聞に「新音楽時報」に対して意義を唱える声明を発表した。その声明を「新音楽時報」が茶化して取り上げたことによって、ブラームスがワーグナーと対立しているというスキャンダルが持ち上がった。

…ただ、それだけの事だったのだ。

ヨーゼフ・シゲティはパリで、ウィーンのヴァイオリニスト、フリッツ・クライスラーがフィリップ・ゴーベール指揮でモーツァルトの協奏曲の至上の演奏を繰り広げている中、指揮者が興奮して口走った一言を聴き逃さなかった
「この人の演奏は…素晴らしい。まるで…フランス人のようだ!」

ブラームスはウィーンでロベルト・フックスという若き友人を持った。フックスはメンデルスゾーンの死の年、つまり革命の前年である1847年にオーストリア・グラーツ近郊のフラウエンタールで生まれた。1865年にウィーンに行き、音楽院でデッソフ、ヘルメスベルガーやブルックナーにも師事した。

1875年 いまだ30歳にもならないロベルト・フックスはウィーン楽友協会の指揮者、そして音楽院の教授として迎えられた。フックスは交響曲や数多くの室内楽曲を作曲し、特に5曲のセレナーデは当時のウィーンを体現する音楽として高く評価された。

ロベルト・フックスの作品は滅多に演奏されない中、その評価はいまだ定まっていない。例えば彼の代表作の一つである「セレナード第3番」にブルックナーからマーラーまでにつらなる響きを聴くのは無駄なことなのだろうか。

フックスのこのような作品を聴いて面白がっていたブラームスと、例えばマーラーの同窓であったハンス・ロット作品との関係を考えてみた時に、果たしてこの世の通説とはなんであるかと、立ち止まってみたくなる。

同じ時期にマーラーは「嘆きの歌」そして初期の傑作「さすらう若人の歌」そのほかの歌曲を次々に世に問うて、交響曲第1番ではハンス・ロット作品の、いわばフランツ・リスト的というべき大々的な引用=パラフレーズを行うことになる。ヴォルフの神秘的な「間奏曲」が生まれたのもこの時期の事である。

マーラー、ヴォルフ、ツェムリンスキー、シェーンベルク、そしてコルンゴルト。世紀末ウィーンの音楽は全て、ロベルト・フックスを媒体として遠く18世紀の過去に、そして20世紀へと流れ出して、果たして何処へ向かったのか。

ウィーンから遠く離れてイギリス。
フランク・ブリッジはヴァイオリンとヴィオラをよく演奏し、ヴィオラでヨアヒム四重奏団とブラームスの六重奏曲を共演したこともある。作曲家としては第一次大戦前にはブラームスやフランス音楽の影響、戦後は新ウィーン楽派の影響云々と、簡単に紹介されている。

しかし、フランク・ブリッジが1904年に作曲したピアノ五重奏曲は、すでにシェーンベルクの「浄夜」と比べることのできる最先端の表現主義音楽であり、「浄夜」のウィーンでの初演が1902年、そして初版が1905年である。これはどういうことか?

フランク・ブリッジは1912年に、もともと4楽章構成であったピアノ五重奏を、緩徐楽章ととスケルツォ楽章をひとつの楽章にまとめて3楽章構成の作品として世に出した。現在演奏されているのはこちらの版である。そこに謎を解くカギがあるのだろうか。

フランク・ブリッジは第1次大戦が終わるまで、おそらくずっとイギリスにいて、まずチャールズ ・スタンフォードについた。スタンフォードは、ライプツィヒでライネッケに師事した国際派で、ヒューバート・パリー等とともに、いわゆる英国音楽復興の中心となった人物である。

スタンフォードはエルガーと同年の生まれ。ロンドンに新しく設立された王立音楽大学に、32歳にして作曲家の教授として迎えられ、ホルストヴォーン・ウィリアムズアイアランドブリスそしてブリッジをはじめとする数多くの作曲家を育て上げた。その頃の代表作にピアノ五重奏曲があるらしい。

スタンフォードはこれまたモダニズムに懐疑的とか、古典的原理に基づいた作風とか、いろいろと言われているけれど、ブリッジに1904年当時として最新のピアノ五重奏を書かせたのは間違いなくこの人なのだ。

思えば、シューマン以降、シューベルト音楽の発見に重要な役割を果たしたのは、イギリス人のグローブ(音楽辞典の人)とサリヴァン(ミュージカルの祖)であったし、1910年にベルリンでシェーンベルクに会って心酔し、新ヴィーン楽派を世界に広めたのも、イギリス人のクラーであった。

ちなみに、このエドワード・クラークはウォルトンのヴィオラ協奏曲のソリストにパウル・ヒンデミットを招聘してその世界初演を実現したり、シェーンベルクの「浄夜」弦楽合奏版の世界初演の指揮をした、第1次大戦後の英国音楽における第一人者の一人である。

1927年、フランク・ブリッジの弦楽四重奏曲第3番がウィーンでコーリッシュ四重奏団によって初演され、ブリッジは名実ともに新ウィーン楽派との邂逅を果たした。そのブリッジのピアノ五重奏は、謎=エニグマに満ちた20世紀イギリス音楽発祥の、強烈な形での証言である。

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2017年6月8日(木) ~ 7月1日(土)
「ウィーン音楽祭」
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