ギョーム・ルクー

ギョーム・ルクーの天才について、語る言葉を持っていなかった。
彼の作品の演奏に接する機会はあまりに少なく、夭折の天才という伝説だけが空しく宙を舞っているのを見つめているだけであった。

2016年からフォーレの室内楽シリーズを続けるうちに、複雑で謎に満ちた19世紀末のフランス音楽の足跡をもっと深く辿ることが出来ないかと感じていた。室内楽においてフォーレが沈黙を守り続けていた時期に最も意義深い仕事をした人、それがギョーム・ルクーなのである。

ギョーム・ルクーは1870年生まれ。つまりツェムリンスキ―より1歳、シェーンベルクよりは4歳年上である。6歳よりヴァイオリンとピアノ、そしてソルフェージュを習い、9歳の時に家族とともにフランスに越してからはチェロにも親しんだ。

15歳の時、ルクーは物理教師アレクサンドル・ティシエからバッハとベートーヴェンの作品を教わり、ティシエや学友たちとラモーからモーツァルト、シューベルトからグノーまでを取り上げる演奏会を催すなど、幅広く古典作品に親しみながらワーグナーやダンディの作品にも触れ、自身でも作曲をするようになっていた。

ルクーは作曲と同じくして詩作にも親しみ、17歳の時にはマラルメに会ったと自身の手紙の中で語っている。18歳の時にチェロソナタを作曲。パリに移りマラルメ解釈で有名なウィゼワの説得で国立音楽院入学はせず、哲学でバカロレアを取得したが、その1か月後に学位を取得してから音楽に道を決めた。

19歳の時にウィゼワの助けを得てバイロイトを訪問、トリスタン、マイスタージンガーそしてパルシファルを鑑賞。トリスタンの前奏曲を聴いてルクーが気絶したという逸話もあるが詳細不明。その後、作家リードの紹介でセザール・フランクと初対面。以降プライベートでレッスンを受けるようになる。

ルクー20歳、1年前から書き始めていたピアノ三重奏の第1楽章の初めの4ページを書いたところでフランクに見せ、絶賛される。その3か月後に第1楽章完成。その半年後にフランク死去。そのあとの3か月間で残りの2,3,4楽章全てを完成させた。

ルクー21歳、ヴァンサン・ダンディと初対面、その推薦でローマ賞に応募する。そのあとウジェーヌ・イザイと初対面。ローマ賞の第2位受賞を辞退。22歳の時、イザイよりヴァイオリンソナタの委嘱、8か月後にイザイとルクー本人による私的な初演。

ルクー23歳。ヴァイオリンソナタの公開初演、大成功を収める。5か月後、ルクーは弟子と友人のチェリストと一緒に食べた氷菓子で食中毒にかかる。そのあとアンジェル・デルに求婚。賛同を得るも父親から「少し待って」と言われる。2か月後、ルクー24歳の誕生日。
その翌日、食中毒がもとでルクー死亡。

…残された書簡の中でルクーはベートーヴェンからシューマン、ワーグナーからブラームスまでのドイツ、そしてグリーグを始めとした北欧、そしてロシアの同時代音楽に対する愛着を語っている。そこにブルッフのヴァイオリン協奏曲の第2楽章への偏愛を見出すに至って、ルクー芸術の神髄が少しずつ見えてくる。

文学青年でもあったルクーは、ピアノ三重奏曲の第1楽章を書いている中で「まず第1楽章、そのあとに別々の楽章を作曲してつなぎ合わせるようなこれまでのやり方ではもう作曲できない」と母に書き送っている。彼は2年前に書いたチェロソナタの登場人物をこの作品に再登場させようとしていた。

異なる作品をまたいで同じ人物が視点を変えて再登場する、バルザックの人間喜劇。ピアノ三重奏曲でチェロが最初に奏でる主題は、チェロソナタですでに人格を与えられていたものの再登場であり、しかしその時とは異なる共演者とのフーガを奏ではじめ、そこから壮大な物語が展開する。

ルクーの人間喜劇はしかし、イザイの登場によってその前衛性は一旦鳴りを潜め、ヴァイオリンソナタにおいてはブルッフを、ピアノ四重奏においてはブラームスからフォーレを異化したキャラクターを出現せしめて、ロマン派音楽の総括を形どることになる。

ルクーはフランクに出会う前にすでにルクーであった。そのピアノ三重奏における執拗なエンハーモニックの使用は1891年においては、まだ誰も踏み込んだことのない領域での仕事であった。スクリアビンはまだ先のことで、フォーレの「優しき歌」でさえその翌年のことなのである。

ルクーはイザイの登場によって大成功を収めたが、同時にルクーの出自は曖昧なものとなり、すぐあとに死を迎えたことで彼は後期ロマン派のノスタルジックな象徴として固定されてしまった。

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’17年12月2日(土)
「G.ルクー」- ピアノ三重奏曲
ヴァイオリン:馬渕清香
チェロ:上森祥平
ピアノ:多川響子
http://www.cafe-montage.com/prg/171202.html