幻想交響曲 バッハとクープランの復活

それは作ろうと思って作れる音楽ではない。

エクトル・ベルリオーズは10歳になって初めて学校に行き、でもすぐにやめさせられて、そこからは父ひとりに教育された。毎日、ヴェルギリウスやホラティウスの訳の分からない詩句を朗唱させられ、幼少にしてラテン語文学からの逃避が人生の第一目的となり、12歳で運命的な初恋をした。物置で見つけたフラジオレットを吹きならしてラテン語からの逃避を図っていたベルリオーズは、それをうるさがった父からフルートとドヴィエンヌ(パリ音楽院のフルート教授)の教則本を買い与えられ、ますます逃避活動に熱をあげてドルーエ(当代随一のフルーティスト)の協奏曲を演奏するまでになった。
アンベールという音楽の先生のもとで歌唱の勉強も始めた。

アンベール先生の息子と親友になったけれど、ある日の朝、「君とはもう会えないかもしれない」といってベルリオーズを抱擁したアンベール先生の息子は、その日の内に自殺してしまった。

ラモーの和声学の古い本を見つけて、まったくわからないままに読みすすめ、しだいに自分のフルートとアンベール先生、そして近所の人と合奏するための音楽を作曲するようになった。
ギターの練習も開始して、すぐに先生が必要ないほどに上手に演奏するようになったが、ピアノの練習だけは父が許さなかった。

「ピアノから距離を置き、沈黙の中で自由に作曲をする道を選ばねばならなかった私の偶然の運命に、私は感謝せざるを得ない。作曲家がつい感じやすい俗悪な響きの誘惑から、私は身を避けることが出来たのだから」とエクトル・ベルリオーズは自信たっぷりに回想している。

医学の勉強をするのであれば…と父が言いながら、「リヨンから、立派なキーのついた新しいフルートを買って取り寄せてやろう」と提案したとき、患者の金切声、断末魔の詩の叫び、そんなもののために「あの天上の世界を捨てるのか…」と若きエクトル・ベルリオーズはベッドに突っ伏して大泣きしたそうだが、結局新しいフルートが欲しさに解剖の勉強をすることに決めた。

1824年、18歳の時、医学の勉強を進めるためにはじめてパリに来たエクトル・ベルリオーズは、オペラ座でサリエリのオペラを観た。そして、パリ音楽院の図書館が一般にも開放されていると聞き、さっそく行ってグルックのオペラの総譜を見た。
「山奥の湖に浮かぶ小舟しかみたこともない少年が、突然に大海原を走る三段デッキの汽船に乗せられたようなもの」
エクトル・ベルリオーズは劇場と図書館に入り浸り、ルシュールという作曲の先生について、とうとうパリ音楽院に編入してしまった。
モーツァルトとウェーバーのオペラ、そしてベートーヴェンの交響曲にもとり憑かれ、しかし、それらの作品がパリの聴衆好みに勝手な改編を加えられるのに憤慨して、評論家をはじめとした沢山の敵を作った。

ベートーヴェンが死んだ1827年から、ベルリオーズの人生が急展開する。
パリ音楽院の作曲で二等賞をとり、オデオン座で「ハムレット」を見て、シェイクスピアに開眼すると同時にオフィーリア役の女優スミッソンに夢中になり、パリ音楽院の作曲で二等賞をとり、ゲーテの「ファウスト」を初めて読み、世界がそれだけになってしまい、その感動に任せて「ファウストからの八つの情景」そして「幻想交響曲」を立て続けに書いて、オペラ座の指揮者に楽譜を見せて演奏してもらう事が決まったものの、リハーサル当日に必要な楽団員がオペラピットに入りきらず、譜面台もまったく足らず、そんな中で舞踏会と死刑台への行進をやってみたものの、演奏会は「何枚かの板が足りなかったせい」で結局実現せず、ついに音楽院でローマ賞一等を取り、ようやく音楽院のホールで「幻想交響曲」の初演が実現し、終演後、それを聴きに来ていたリストに会い、「ファウスト読んだ?」と尋ねたところ「まだ読んでない」というリストの返事をきくまでのことが、たったの3年で行われたのである。

ところで「幻想交響曲」とは、なんであろう。
エクトル・ベルリオーズという作曲家について、あらためて二つのことを整理しておきたい。

ベルリオーズの音楽体験が長い間、都市生活から隔たった場所で手にしたひとつのキーしか持たないフルートとギター、そしてラモーの和声楽であったところから、同時代のパリやウィーンとはまったく時代感覚の異なった環境の中で培われたものであったこと。

そして、始めてオーケストラの総譜を数ページを見ただけで、「この用紙にはどのような管弦楽でも書くことが出来るはずだ」と、天空に広がる無限の世界をたちまちにイメージするようになったこと。

ベルリオーズはそのイメージをパリに出てきてからもずっと持ち続けていた。
何を観ても、そこに無限の可能性を感じ、自分のイメージを制限しようとする何かが現れても無駄な事であった。

シェイクスピアと「ファウスト」からの影響で、ある物語を組み込んだ交響曲を作曲しようというにあたって彼が参考にしたものがあるとすれば、それはバロック音楽に違いない。

バロック音楽には物語を組み込んだ作品がたくさんある。
フランスで有名なところでは、フランソワ・クープランの『コレルリ賛』という室内楽作品があって、それは以下のようなプログラムの組曲である。

  1. 作曲家コレルリはパルナッソス山で、ミューズたちに仲間に入れて欲しいと願う。
  2. ミューズに受け入れられて、コレルリは喜ぶ。
  3. コレルリはヒポクレネの泉の水を飲む。周りの人もそれに従う。
  4. 泉の水によってもたらされるコレルリの陶酔
  5. 陶酔のあとの甘いまどろみ
  6. ミューズがコレルリを起こし、アポロの元に連れていく
  7. コレルリは感謝する

そして「幻想交響曲」初演時のプログラムに記された物語は以下の通り

  1. 「情熱のうねり」という精神の病にかかった若い音楽家が、100%理想の彼女に出会う。
  2. 若い音楽家が、舞踏会の喧噪もしくは自然の静けさの中に身を置く。どこにいても理想の彼女の幻影がちらつく。
  3. 野の風景 二人の羊飼いの歌が聴こえる。孤独を癒してくれる、理想の彼女の幻想。でも、もし裏切られたら…と心配するうち、ひとりの羊飼いの歌しか聴こえなくなる。
  4. 死のうと思って麻薬を飲んで、陶酔状態になる。まどろみの中、理想の彼女を殺した自分の処刑を夢に見る。
  5. ワルプルギスの夜 理想の彼女が魔女たちの狂乱に加わる夢をみる。

以上、果たしてどうだろうか…。

エクトル・ベルリオーズはラモーの和声楽をわからないままに読んで作曲していた頃に書いた旋律を、この「幻想交響曲」の中に復活させている。パリ音楽院の図書館で、あらゆる趣味の融合と神格化されたクープランによる室内楽にも触れたことだろう。
そこにパリで初めて聴いたサリエリやグルック、モーツァルトやベートーヴェンそしてウェーバー、もしくはシェイクスピアやファウストから受けた衝撃をそのままに反映して書かれた作品が「幻想交響曲」であるとすれば…。

つまり、ウィーンでベートーヴェンがバッハを呼び起こし、ライプツィヒでメンデルスゾーンが復活させたやり方で、ベルリオーズはパリでクープランを復活させたといえるのではないだろうか。

そう考えればベルリオーズが作ろうと思って作れるものではない作品を作曲し続けた事と、パガニーニが「ベートーヴェンの真の後継者は貴君しかいない」と言った意味はさらに深いものに思えてくる。

ここに完全に新しい音楽が誕生した。
初演を聴いたフランツリストは、規格外のオーケストラでしか演奏できない「幻想交響曲」の衝撃を広く宣言するために、超絶的なピアノ独奏版を作ってみずから演奏してまわった。その衝撃はピアノという楽器の存在にも決定的な影響を与えて、新たなヴィルトゥオーゾの時代が始まった。

リストから送られてきた譜面を見たロベルト・シューマンが、ピアノの音符からオーケストラの全ての楽器をイメージすることが出来るとして、「幻想交響曲」の批評として今日まで別格に扱われている名文を書いて「新音楽時報」に掲載した。

ベルリオーズは晩年に上演時間が5時間に及ぶ、大作「トロイ人」を書き上げたあと、ほとんど作曲をしない中で書いた数少ない音楽の中にクープランのクラヴサン曲集の合唱編曲がある。

1869年3月8日にヘクトル・ベルリオーズは死んだ。

幻想交響曲の登場が、オーケストラそしてピアノの音楽の全てが塗り替えられてしまった一大事件であり、ドイツにおけるバッハ復興に匹敵する、19世紀のフランス楽派にとって最大の出来事でもあったことを、ベルリオーズ没後150年の今年、盛大に回顧することが出来ればと願っています。


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2019年12月8日(日) 20:00開演
「H.ベルリオーズ」
ピアノ: 菊地裕介
https://www.cafe-montage.com/symphony/191208.html