交響曲「ザ・グレート」

1839年の3月21日に交響曲「ザ・グレート」はフェリックス・メンデルスゾーン指揮のゲヴァントハウス管弦楽団によって初演された。
パート譜はシューマンが前年にウィーンから送り付けてきたシューベルトのページの順番が不揃いなままの自筆譜から、ただでさえ多忙のメンデルスゾーンが暗号を解くように並べて書き起こした。

シューマンはメンデルスゾーンとは別に出版社ブライトコプフにあてて、 “交響曲「ザ・グレート」” の続きを読む

あの時の、死の行方

1824年5月のウィーンでウムラウフによる指揮、作曲家の臨席の中、ベートーヴェンの交響曲 第9番 ニ短調の初演が行われた。
翌6月、シューベルトはニ短調の弦楽四重奏曲を書き始めた。

パパゲーノは、首を吊った時に死んだのではなかったか。
ファウストは、メフィストフェレスと契約をした時に死んだのではなかったか。

契約に向かうファウストは言った。
「己の心を人類の心にまで拡大し、 “あの時の、死の行方” の続きを読む

シューベルトとリスト 隠れた世界への扉

ブルックナー交響曲第8番は、第23小節目から始めれば「魔王」

そのようなことに気が付き始めたのは、つい最近のことだ。

ブルックナーの魔王は、はじめは遠くにうろうろしている魔王が見えてなんだか「気味が悪い」と思っていたら、いきなり目の前に、思ったよりも大きな姿で現れて連れていかれてしまう。
そしてシューベルトの場合は、いきなり魔王が現れて、連れていかれる。 “シューベルトとリスト 隠れた世界への扉” の続きを読む

シューベルト、こちらへ

Du mußt es dreimal sagen.
「おはいり」、とファウストは3度言わなければならなかった。
オペラ「ルル」原作の冒頭の長台詞においても、ヴェーデキントは「おはいりなさい」と3度、猛獣使いにいわせている。

ウェーバーの「舞踏への勧誘」でも、大変に長い3度目の「おはいり」のあと、ようやく舞踏会への入口が開かれる。

ベートーヴェンも2度目の脅しつけるような「おはいり」のあと、3度目の「おはいり」が長く、そのまま追っかけ合いの舞踏会に突入する。

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ショパン、ベートーヴェン

ショパンには2歳年下の妹がいた。

名はエミリア。音楽のショパンに対して、文学のショパンともなるべき才能を若くして示した彼女は、兄フレデリクとともに「文芸娯楽協会」を立ち上げ、会長に就任した兄の秘書を務め、演劇の台本を書いて共に演じた。

兄との共作「失策、あるいは見せかけのペテン師」では、迫真の演技で市長役を演じる兄フレデリクの横で、エミリアは作者役として座っていた。エミリアは人を笑わせることが得意で、病弱な兄とは違って常に快活であったのに、14歳にして結核にかかり、そのまま回復することなく2か月後に死んでしまった。 “ショパン、ベートーヴェン” の続きを読む

二つの歴史、モーツァルト

モーツァルトの音楽には二つの歴史がある。
一つは、それが作曲者の手によって書かれたことの歴史
そして、それらが世に知られるようになったことの歴史

1775年にミュンヘンで一息に書かれた6つのピアノソナタは、その為にお金を払う人もなく、長らくはまったく知られることのなかった作品であった。第1番から第5番までのソナタが出版されたのはモーツァルトの死後、1799年のこと…その前年にベートーヴェンは「悲愴」ソナタを書いていた。 “二つの歴史、モーツァルト” の続きを読む