「S.プロコフィエフ」
2025年4月26日(土)&27日(日) 19:30開演
【プログラム】
S. プロコフィエフ:
曲集『束の間の幻影』 op.22 全22曲
ピアノソナタ 第3番 イ短調 op.28
ピアノソナタ 第4番 ハ短調 op.29
ピアノソナタ 第5番 ハ長調 op.38
2023年のラフマニノフ、2024年のスクリアビンに続いて、2025年のカフェ・モンタージュでの演奏会はプロコフィエフを取り上げます。
ピアニストにとってこの3人は、19世紀から20世紀にかけてのピアノの黄金時代を代表する作曲家たちで、そのピアニズムの個性は、三者三様で、非常に異なる世界を持っています。
今回は1915年前後から1925年頃にかけての作曲、出版した作品を取り上げたいと思います。この時期はプロコフィエフが成熟した作曲家として、自己確立した時期にあたります。ピアノの作品以外では、スキタイ組曲作品20、バレエ組曲「道化師」作品21とその交響組曲作品21bis、古典交響曲作品25、ピアノ協奏曲第3番作品26、オペラ「3つのオレンジ色の恋」作品33、「炎の天使」などを作曲していた時期に重なります。ロシア革命が勃発し、シベリア鉄道を通り、日本経由でアメリカに渡り、その後パリやドイツなどヨーロッパに渡った時期でもあります。
因みにプロコフィエフは文学的な才能も持っており、その旅行中に小説も書いて、それらの日本語訳も出ています。なかなか風変わりな、シュールな雰囲気がある作品が多く、又1918年日本滞在中の日記は興味深いもので、京都や奈良に旅行した様子、横浜での演奏会の様子も描かれています。また自伝も書いています。ソ連時代の検閲が感じられる面もありますが、やはり本人がどのように自身の創作活動や人生を考えていたかが分かる、興味深い記録です。
数ヶ月の日本滞在後、太平洋航路でアメリカに渡り、暫く滞在した後、ヨーロッパに戻り、フランスやドイツで生活します。
『束の間の幻影』は早くからプロコフィエフの代名詞となった小品20曲からなる作品。本人も演奏会で好んで弾いており、早くからルービンシュタイン、ネイガウス、リヒテル、ギレリスなどが抜粋で取り上げて有名になった曲集です。日本の俳句の様に簡潔にして完結しているもの。雰囲気やテーマが1曲1曲異なり、性格描写の奥深さ、音楽的アイディアやその豊かさには舌を巻きます。
ピアノソナタ第3番と第4番は、10代の頃に書き留めていたスケッチを元にしている作品。ほぼ同時進行で作曲されたものですが、この2曲の作品は構成の上でも、語法の上でもかなり違いがあります。1楽章形式の第3番。古典的な3楽章形式の第4番。互いに意識して異なる様式に書かれたものですので、ある意味2曲のペアで1つの、対になっている兄弟作品とも言えます。
ピアノソナタ第5番を書いている頃はフランスとドイツに滞在し、最初の夫人リーナ・コディナ(スターリン時代に悲劇となる彼女の運命は、その当時誰も想像していなかったでしょう)と結婚した時期に当たります。1920年代前後でなければ書かれなかったような作品です。それまでの語法(ベートーヴェン、ショパン、スクリアビン、ストラヴィンスキーの強い影響)などから更に変貌を遂げ、ヨーロッパのアバンギャルドや芸術的な傾向の影響も受けています。ダダイズム、シュールレアリズムなどの影響も感じられます。勿論直接的なものではなく、いつもプロコフィエフのフィルターを通しての作品に仕上がっていますが、第一次世界大戦後、特にワイマール共和国時代のドイツや、クレマンソー時代のフランスなど、時代の雰囲気が現れている作品だと思います。第3楽章の終わりには、もしかしたら日本滞在中に聴いたかもしれないと感じさせる東洋的な音が聞こえます。
この曲が献呈されたピョートル・スヴチンスキーは、その後スターリン時代のソ連に帰らないようにリーナ夫人に伝えた人物と言われています。(しかしプロコフィエフはその忠告を聞かず…。)フランスの音楽界で活躍し、第二次大戦後にドメーヌ・ムジカルの創設者の1人となりました。メシアン、ブーレーズやシュトックハウゼンの擁護者ともなった人です。
その後、第5番はソ連に帰国後、最晩年にもう一度手直しをして作品135として出版しました。これは曲に満足していなかったからというよりも、この作品が旧ソ連では出版されておらず、いっそのこと手直しをして新しく出版するとの意図があったようです。1920年代と1950年代という大きな作曲年代の違いがあります。私は今回1923年作曲の初版を演奏します。
プロコフィエフの仕事の仕方は、非常にシステマティックで、外的な要因(ロシア革命、第一次世界大戦の終焉、移住など)にもかかわらず、質、量ともに非常に安定した創作を続けた点で驚異的です。日常的に様々な音楽的イデー、音型やモチーフのスケッチをしていて、それらを後日多様に組み合わせる様は、ベートーヴェンの仕事の仕方を思い起こさせます。1つの作品ごとに、自身で創作の重要な課題を設定してそれに沿って創作していくやり方も非常にベートーヴェン的と思います。
プロコフィエフの音楽は、いわゆる戦争ソナタという通称に由来すると思われる、バーバリックな側面ばかりが強調されますが、そこまで単純なものではありません。実は非常に詩的で、繊細な精神が隠されていることを見逃してはならないと思います。時に瞑想的な深い叙情性、性格描写の多様性、奇抜さ、グロテスクさ(自伝によるとこの言葉を本人は好んでいなかったそうですが)、不思議なもの、Provocative(挑発的)なものへの偏愛、時に軟体動物的、或いは深海魚を想わせる雰囲気、そして動と静、ロマンティックなものと近代性の並立、ロシアの民族性と西ヨーロッパ、或いはオリエントへの憧憬、単純さと複雑さの共存があると私は思います。
彼は語学が得意で、様々な言葉や文化圏に通じていた様です。またペテルブルグ音楽院という最も西欧のシステムに近い、しかし質的にはそれ以上の、徹底した教育を受けたことで、10代の時から幅広い知識と視野を持っていた事は確かです。オペラ、バレエ音楽、オーケストラ作品、多岐に渡る室内楽、歌曲、全てのジャンルに渡って、質の高い作品を残した点はやはり凄いことだと思います。そして幼少時代の最も初期段階で、ワルツやガヴォット等の舞曲を多数書いていた事も示唆に富んでいるのではないでしょうか。
― 上野真(2025.2)