今回プログラムの中心の一つであるショスタコーヴィチの『24のプレリュードとフーガ』は、彼が参加したライプツィヒでのJ.S.バッハ没後200年のイベントを契機に、バッハへの敬愛から作曲が始められたものでした。
イベントにおいてショスタコーヴィチは、「我々にとってバッハの遺したものは、この暗い、剥き出しの悪と人間性の軽視の世界とは対照の、燃え上がる感情や魂ある人間性、本当のヒューマニズムを体現しています」とスピーチをしていますが、まさに彼の作品、特にフーガやパッサカリア、そのポリフォニーにはバッハへの愛が随所に感じられるように思います。
平均して3日に1曲という恐るべきスピードで書き進められたこの曲も(作曲者自身はそれを「自身が作曲家としての地位を失わないために」書いたと述べています)、当初の対位法の練習曲的な着想から離れ、次第にバッハの『平均律クラヴィーア曲集』のように全ての調性を網羅するようになったものだそうです。
しかし考えてみれば、ただ「神のみに栄光あれ」であったバッハとは違い、ショスタコーヴィチは社会主義国家の中で無神論者でありました。それでなくてもバッハとショスタコーヴィチの間には国、社会の違いはもちろん200年近い歳月の隔たりがあるわけで、その上で一つの精神を受け継いでいくというのは、なんだか不思議なものです。今回演奏される「24番」にしても、それこそ「シャコンヌ」を思わせるようなバロック風の冒頭からもどこか避けがたくショスタコーヴィチの刻印を感じさせ、最後にはそれが彼の有名な交響曲の5番の片鱗すら思い起こさせるような空間へと広がっていきます。
そう思うと、同じくバッハを心から敬愛したベートーヴェンやブラームスもそれと同様(そして秋元さんの愛するメトネルも同じように)、その先鋭や静かに燃える内省は、既に彼らそのものの音楽です。今回は、そんな違う人間同士の受け継がれる、しかも独立した関わり合い(それはショスタコーヴィチの考える、この社会の中で抜け落ちていきがちな「人間性」の一つなのかもしれません)のことが、プログラムを組みながら頭をよぎっておりました。
宇宙にすら例えられるような「シャコンヌ」という海の一端から流れ出す本日のプログラムが、そのような関わり合いの一部であることができますように。皆様にももしそのように感じていただけたとしたら、そんなに嬉しいことはありません。
― 黒川侑
黒川侑さんと秋元孝介さんがそれぞれソロ作品「シャコンヌ」と「プレリュードとフーガ」をひとつのテーブルに出し合い、そこから演奏者二人そして作曲家二人の関わりから紡ぎ出され、離れた時と場所から投げかけられる無数の声を拾い上げていくような壮大なプログラムが出来上がったとのこと。
「人間性」がHumanismから訳された言葉だとすれば、歴史的にはそれは非人間性の反対語という意味だけではなく、教養を共有し、この世で互いに人間であることの認識を深めていく思想のことでもありました。知識はひとりでも探せるかもしれませんが、教養は人とのつながりの中で共有されることが前提で、それが多岐にわたるほどに偏った見識が薄まっていくとすれば、音楽における「人間性」とも合致するのではないでしょうか。
小さな会場での出来事ではありますが、黒川さんと秋元さんのお二人が誘う音楽の世界で、その様々な声を聴きに来ていただけましたらと思います。
終演後にはレセプションも開催予定です。グラス片手に余韻の漂う中でのひとときをお過ごしください。
― カフェ・モンタージュ 高田伸也