ラフマニノフがロシア時代、そして亡命先のアメリカ時代のそれぞれ最後に書いたピアノの為の独奏曲をお聴きいただきます。
10代の頃から常に親友として対してきたスクリアビンが1915年に急死し、ラフマニノフはスクリアビンの作品だけのコンサートプログラムを準備してツアーを行いました。これはラフマニノフが自身の作品以外を公に演奏した最初であったといいます。その翌年に複雑極まるハ短調の「葬送」を含む『音の絵』op.39のほとんどを書き上げ、結果としてこれが故郷ロシアへの告別となりました。ショパン、リスト、そしてスクリアビンが書いた「練習曲」のジャンルに足を踏み入れ、ドビュッシーの『練習曲集』(1915)と共にその時代を体現したモダンな感性がほとばしる重厚で刺激的な内容となっています。
そして、1918年のアメリカ亡命のあと、ほとんど作曲をしなかったラフマニノフが、1931年になって唯一書き上げたピアノの為の独奏曲が『コレルリの主題による変奏曲』です。アメリカ時代の親友で共演の録音も存在するヴァイオリンの巨匠クライスラーに献呈した作品ですが、この作品の演奏に際して、ラフマニノフがメトネルに書き送ったとされる興味深いコメントが残されています。
「この曲をだいたい15回演奏したけれど、一度しかうまくいかなかった。自分の作品をちゃんと弾けないなんてね!演奏には観客の咳を参考にして、咳が増えてきたら次の変奏曲をひとつ飛ばして弾くということにしたんだ。まあ、咳がなかったら全て弾くのさ。でも、どこだかわからない小さな町だったけど、本当に咳がひどくてその時は10の変奏曲しか弾けなかった。今のところのベストは18の変奏曲を弾いたニューヨークだ。君がこれらを全部弾けるように願うよ、咳なしでね。」
・・・本当にそんなことをしていたのか、朧げに想像している貴族的なラフマニノフの人物像にやや混乱が生じるようなエピソードですが、クライスラーがコレルリの"ラ・フォリア"をまるで自分の作品のように自由に編曲して(これはこれで10分以上ある快作!)演奏しているのを聴き、おそらくは一緒に演奏もした、その主題をもとに倍の20分もの大作を書き上げてクライスラーに献呈し、自分で何度も演奏した(しようとした)という、実に心温まる友情の証。
親しみ深いラ・フォリアを聴くうちに、見知らぬ土地に足を踏み入れて奥へ奥へとひたすらに進んでいく、後期ラフマニノフの魅力満載の大作となっています。
ラフマニノフの二つの大作を外ならぬ秋元孝介さんの演奏で味わい尽くす贅沢な一夜。皆様、ぜひ聴きにいらしてください!
― カフェ・モンタージュ 高田伸也