ヒエロニムス・コロレドは芸術に理解のない君主だとか、ところによっては暴君だということになっている。
それは、若きモーツァルトが臀部を蹴られたからというのが大きいだろう。実際に蹴ったのはコロレドの部下のアルコ伯爵なのであるが、この話を目にするたび、ラヴェルのマラルメ歌曲のタイトル『臀部より現れ出でて飛び出したる』を思い出すのだが、確かにザルツブルグ大司教コロレドとのやり取りの末に臀部を蹴られてから、モーツァルトは数々の名曲のほとんどを生み出したということなのだ。
さてコロレドを暴君と決めるのは誰なのか。
民主主義の徹底した世の中であれば、それはその君主を選び出した民衆ということになるのだろう。1771年、ザルツブルク大司教の座はミュンヘンと強いつながりがありかつ地元の有力者で人望もあるヴァルトブルク=ツァイル伯爵とザルツブルク教区内のグルクという田舎町(2022年に人口1185人)で司教をしていたコロレドの二者決戦となり、ヴァルトブルク=ツァイル伯爵が当然選ばれるであろうという予測を覆す形で、ハプスブルク家もっといえばマリア・テレジアの後ろ盾を得たコロレドが勝ち取ったのである。
こうした形で生まれた君主の業績を今日になって評価するとなると、決定的な指標となるのはいまの私たちにとって最もポピュラリティのある存在、つまりモーツァルトとの関係であるということになる。モーツァルトは、彼自身の手紙を読む限りでは、ザルツブルクを追い出されたのではなく自ら出て行ったのだが、「臀部を蹴られた!」というモーツァルト本人の申し出(父レオポルトへの手紙)があっては、今日の評価が下がってしまうのはまあ仕方のないことなのだろう。
コロレドは秘密結社イルミナティのメンバーで、生粋のヨーゼフ主義者であり、強烈な啓蒙思想を振りかざして迷信の類い(とコロレドが認識した)教会の儀式などを取り止めにして祭り好きな民衆の怒りを買ったり、増税と緊縮財政で教会の負債を黒字にしたあと、その黒字で証券を買って大損したり、ラテン語や東欧の言葉に精通していて、音楽が好きでヴァイオリンを弾くのが上手だったとのことである。ヨーゼフ・ハイドンの兄であり前大司教のお抱えであったミヒャエル・ハイドンをそのままカペル・マイスターの地位に置き、モーツァルトの父で偉大なヴァイオリン教師であったレオポルトを重用し、副カペルマイスターに採用した。
モーツァルトがヴァイオリンとヴィオラのための二重奏曲を2曲も書いたのも、もともとコロレドがミヒャエル・ハイドンに6曲の二重奏曲を依頼したところ、4曲しか出来上がらず困っていたところに、たまたまウィーンからザルツブルクに一時帰郷していたモーツァルトが助けたのであったという。この壮麗なヴァイオリンパートがコロレドを想定したものであったとしたら、コロレドのヴァイオリンの腕は相当のものであっただろう。
この逸話は、まだ6曲の完成を待ちきれないコロレドが給金を差し止めて、そのためにミヒャエル・ハイドンはご飯が食べられずに病気になったなどという少し膨らんだ話になってしまうこともあるそうだが、最近の研究ではどうやらミヒャエル・ハイドンの深酒が原因ではないかとの見方もあるようで、「暴君」のイメージがあるために付された作り話が新たなコロレド暴君説を呼び起こしていた一例であろう。
50歳頃、つまりモーツァルトと悶着があった時期のコロレドの肖像を見てみると、なるほど質素な衣食住に徹したヨーゼフ主義者の啓蒙君主という先入観に適合する清潔かつ剛健な印象を纏っていて、なんというか、自信に満ち溢れている。
モーツァルトの書いた2曲の二重奏曲については、今日ではそれがコロレドとの関係で生まれたことにさえ懐疑的な見方があって、というのは他人の埋め合わせとして暴君コロレドのために書かれたものとしては出来栄えが素晴らしすぎるからというのである。
記録によるとトレークというウィーンの出版社が出した新聞広告に「6曲の二重奏曲 4曲はハイドンライヒ作、2曲はモーツァルト作」というのがあり、このHaydnreichというのがミヒャエル・ハイドンのことで、やはりこれらは6曲セットだというのが従来の見方で、しかしこのトレークという出版社はちゃんと印刷した楽譜を販売したわけではなく、手書きで書き写したいわゆる筆写譜を売っていてそれらは現存しないのだから、このモーツァルトの2曲というのが今回の二重奏曲と同じかどうかがわからないとまで疑うのである。
ここまで来るとこっちはコロレドの肩を持ちたくなってきた。
資料の読み方次第では、コロレドが君主として懸命であった側面を強調することも可能で、父を重用するコロレドにモーツァルトが悪意ばかりを持っていたわけではなかろうという視点だって出てきていいはずで、今回の公演タイトルと相成った次第である。
― カフェ・モンタージュ 高田伸也