ゴルトベルク変奏曲 目を閉じるアリア 

アリア、とはなんだろう。

J.S.バッハが書いた一つの長大な変奏曲が1741年に出版された、その初版楽譜の扉には以下のように書かれている。
Clavier Ubung (- 鍵盤練習曲)
bestehend (- によって成り立つ) 
in einer (- あるひとつの)
ARIA (- アリア)
mit verschiedenen Verænderungen (- それぞれ異なる変奏と)

日本語を並べ替えると

「ある一つのARIAと異なる変奏によって成り立つ鍵盤練習曲」

となる。 “ゴルトベルク変奏曲 目を閉じるアリア ” の続きを読む

サンサーンス 大きすぎて見えない

いずれも1850年代、サンサーンスがまだ20歳前後だった時の話。

時の大ソプラノ、ポーリーヌ・ヴィアルドーとサンサーンスの共演で演奏されたシューベルトの『魔王』はパリで大センセーションを起こした。

サンサーンスは交響曲『レリオ』をピアノ版に編曲して、晩年のベルリオーズのお気に入りになった。その後ツアーにピアニストとしてついていったサンサーンスは、シャンパンとコーヒーとタバコの大量摂取を老巨匠に我慢させるのに苦労したという。でも、老巨匠はいずれも大量に楽しんだ末に死んでしまったという。 “サンサーンス 大きすぎて見えない” の続きを読む

早すぎたサンサーンス 遅すぎた世紀末

1859年、パブロ・サラサーテがサンサーンスを訪問した。

神童として名を馳せ、2年前にパリ音楽院を首席で卒業してソリストとしてすでに有名になっていた15歳のサラサーテは、24歳の作曲家に向かって何か自分のために書いて欲しいといった。サンサーンスはその場で快諾すると同時に、その作品がイ短調の小さな協奏曲になるだろうと15歳のヴァイオリニストに言った。 “早すぎたサンサーンス 遅すぎた世紀末” の続きを読む

古楽の精神 サンサーンスとラモー

古楽はいつ生まれたか。

古楽とは、ある古い時代の音楽一般の呼称ではない。
作品が書かれたその時の演奏習慣や趣味をひもといて、ありのままのすがたとは言わないまでも、その作品が持つ精神を現在に蘇らせようとするときに初めて「古楽」は演奏される。 “古楽の精神 サンサーンスとラモー” の続きを読む

シェーンベルク 夢のすすめ

「二、三十年前も前には、詩人、ことに抒情詩人は…」と1946年にシェーンベルクは語りだした。

「単刀直入な言葉を使わずに…ぼかした表現法を用いるのがよい、とされていたものである。従って、事実や考えは夢から出てきたものように登場し、読者にただ夢見るように勧めるのである…しかし、このような考えはもう一般的ではない。」と言いながら、そうした考えがいかに広く流布して今も一般的であるかということについて、シェーンベルクは書き続けるのである。

「真の作曲家が作曲する理由は唯一 ―それが自分自身楽しいから― であると私は信じている」とシェーンベルクは言い始めた。
兵舎のパーティーのために作曲しているシェーンベルクを見て、同僚が『シェーンベルクは手紙を書くような速さで作曲をする』と驚いたとき、確かに「手紙を書くのは作曲するのと同じくらい時間がかかることが多い」とシェーンベルクは思ったそうだ。

「動機を組み合わせる作業はインスピレーションの働きによって自然発生的に行われるのではなく、音楽以外の概念、すなわち大脳反射の産物…」と言いながら、『室内交響曲』については「インスピレーションのおもむくまま作曲に着手したのは確かである」とシェーンベルクは回想し始める。しかしそう言ってしまう事で、「インスピレーションが完全な形のプレゼントを作曲家にしてくれることもあるのだ、という結論が引き出されかねない」とシェーンベルクは警戒し始める。

悲惨な第二次大戦が終わり、「芸術において最高の価値を生み出すものは、すべて頭脳とともに心をも示す」と断言するシェーンベルクは、一方ではバルザックの『セラフィータ』の中に出てくる、首が短く「心に頭が牛耳られている人間」のようにみられやすい自分を意識しながらも、自分の大脳反射の速度を惜しげもなく開陳して、それでも心のおもむくままに『室内交響曲』の作曲を始めたころのことを、かつて見た夢のように懐かしんでいる。

何のために作曲するのか。
かつて大交響曲が抱いた大空の断片と、それを啄んでいく鳥たちの声が絶えずせめぎ合っているシェーンベルクの『室内交響曲』を聴いている。
世界を変えた男が一生問われ続けた、その答えを探してまだそのあたりをさまよっているようだ。

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2019年12月9日(月) 20:00開演
「A.シェーンベルク」
ピアノ: 松本望
フルート: 瀬尾和紀
クラリネット: 小谷口直子
ヴァイオリン: 瀬﨑明日香
ヴィオラ: 小峰航一
チェロ: 上森祥平
https://www.cafe-montage.com/symphony/191209.html

英雄交響曲、ハイドンの葬送音楽

ベートーヴェンの英雄交響曲の第2楽章が葬送行進曲となっていることについて、それが誰かに特別な人に対しての追悼なのか、もしくは何か重要な物事の終わりを意味しているのか、様々な説がある。

一つの交響曲がある英雄にしろ、ある死者にしろ、オマージュという形で書かれているとすれば、そのドラマを知りたいと思った。

交響曲というひとつのジャンルのみならず、音楽で表現される世界の全てを変えてしまったといわれる英雄交響曲となれば、そのドラマはひとつではないだろうし、いくら尽くしても見通すことなどできないに違いない…、でも少しずつでも、辿りたいと思うのだ。

まずは地道に楽譜を見ていくところから。
英雄交響曲を書くにあたって、ベートーヴェンが何か参考にした作品があるとすれば…、まずはやっぱりモーツァルトだろうか。

モーツァルトが書いた最後の3つの交響曲の中の1曲目が、英雄交響曲と同じ変ホ長調だ。
早速モーツァルトの交響曲第39番(1788年作曲)の第1楽章 第1主題のモチーフと、同じくトレモロを伴った英雄交響曲の主題を比較してみる。似てる‥と思って調べてみると、やはりこれは似ているということになっているらしい。それは知らなかった。

 

この交響曲はモーツァルトの生前に演奏された記録はないけれど、死後の1797年に出版されているのでベートーヴェンは聴いたことが無くてもまず譜面をみただろうし、見れば全て了解されたに違いない。でもこれだけで、英雄交響曲がモーツァルトの最後の交響曲に触発されて書かれたものだとまで言ってしまうのは、さすがに無理がある気がする。
少しずつということだし、これから調べればもっと色々と出てくるだろうと思う。

モーツァルトの最後の交響曲を見たのだから、次はハイドンだ。
ハイドンの最後の交響曲と言われるものは、1794年のロンドン遠征に向けて書かれた6曲セットで、それは以下のようなものである。

交響曲第99番 変ホ長調
交響曲第100番 ト長調「軍隊」
交響曲第101番 ニ長調「時計」
交響曲第102番 変ロ長調
交響曲第103番 変ホ長調「太鼓連打」
交響曲第104番 ニ長調「ロンドン」

変ホ長調が二つある!!
と思ってまず最初の99番の交響曲から聴き始めた。知らない曲だったけれど、さすが傑作揃いといわれるセットのはじめに来る作品だ…とワクワクしながら聴くうちに、第1楽章の展開部に入ったところに木管の掛け合いが出てきて、そこには確かに英雄交響曲が聴こえる!

交響曲第99番‥、どういう作品なのだろうと調べてみると、この作品は第2楽章が、ハイドンにとってかけがえのない友人のために書かれた追悼の音楽というのである。
第2楽章が葬送…、まさに英雄交響曲と同じではないか。

1793年、ベートーヴェンはまさにこの作品が書かれている時にハイドンのところにいたのだから、その存在を知っていないはずはないし、作品の込められたハイドンの気持ちについても聞かされていたかもしれない。
しかも!!
その時代に若きベートーヴェンがまさにこのハイドンの交響曲第99番を写譜したスケッチが実在するらしい‥、このつながりは深い!

ところで、ハイドンがこの追悼の楽章を捧げた友人とは誰の事だろう…、話はこの交響曲が作曲される4年前にさかのぼる。

ハイドンのエステルハージ奉公が終わりに差し掛かった1789年、ハイドンのもとにひとつの封筒が届いた。封筒の中にはハイドンのある交響曲のアダージョをピアノに編曲したから見て助言をして欲しいという手紙と、手書きの譜面が入っていた。

その封筒の送り主はマリア・ゲンツィンガー夫人といった。
ハイドンはまず、そのアダージョのピアノ編曲をゲンツィンガー夫人がスコアを見て書いたのか、もしくはオーケストラのパート譜を集めて書いたのかを問いただした上で、いずれにしても素晴らしく正確な編曲で、このまま出版社に渡して良いほどである。助言などとんでもない、私は貴女からそのようにお褒めいただくほどの者ではない…と、最大の敬意をはらった返信を書き、すぐにゲンツィンガー夫人に送った。

交響曲の総譜が印刷される習慣がなかった当時、35歳のゲンツィンガー夫人がおそらくパート譜を集めて編曲したピアノ版のアダージョを見て、59歳のハイドンの感激が大変なものであったらしい。
すぐに家族ぐるみの付き合いが始まり、ゲンツィンガー夫人はハイドンのほかの楽章も次々にピアノに編曲してハイドンに送った。ハイドンはそのたびに感激して返信を書いた。その後もゲンツィンガー夫人とハイドンの間には無数の手紙が交わされた。
1790年、すでに心の友といってそれ以上の存在はないほどになっていたゲンツィンガー夫人に、ハイドンが特別な感情を込めて作曲した変ホ長調のピアノソナタ第49番を捧げられた。
1791年、ロンドンにいたハイドンがモーツァルト死亡の報を聞き、「これからあと何100年たっても、あのような才能があらわれることはない」と書いたのも、ゲンツィンガー夫人にあてた手紙の中であった。

モーツァルトが死んだ翌1792年に、ハイドンはベートーヴェンを連れてウィーンに戻って来た。そして翌1793年、ハイドンが次のロンドン遠征に向けて交響曲を書いている最中、ゲンツィンガー夫人が死んだ。39歳の生涯であった。

ハイドンは交響曲第99番を書いていた。その変ホ長調の交響曲の中、まったく異質なト長調のアダージョを第2楽章として置いた。
このアダージョのピアノ譜を書いて見せてくれる人は、もうこの世にいないのだ… 追悼の音楽を書くハイドンの隣にはベートーヴェンがいた。

1803年、ハイドンはしばらく書かなかった弦楽四重奏を書こうと思いついた。
それは変ロ長調の第1楽章そしてニ短調の第2楽章という、やはり変わった構成を持っており、そのあとどうなるのか…というところでハイドンは筆を置いた。

結局、この弦楽四重奏曲がハイドンの人生最後の作品となった。
最後にハイドンは以下の言葉による、一つのカノン旋律を書いた。
Hin ist alle meine Kraft | alt und schwach bin ich
「我が力は全て消え失せた|私は年をとり、衰えたのだ」

もう作品を書くことはない、ベートーヴェンは師匠からそう聞かされてはいなかっただろうか。
1803年、ハイドンが書いた絶筆の中にあるフーガと、ベートーヴェンがその年から翌年にかけて書いた英雄交響曲の葬送行進曲中、もっとも劇的な展開を見せるフーガを並べて置くところで、このお話はひとまずおしまいにしなければいけない。


その後、ハイドンは作曲することなく、1809年5月31日に死んだ。
その後まもなく、ベートヴェンは英雄交響曲と同じ変ホ長調の弦楽四重奏曲を書き上げた。

ハイドン、そしてベートーヴェンの交響曲。
ドラマはまだまだ始まったばかりだ。

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2019年12月6日(金) 20:00開演
「F.J.ハイドン」
ピアノ: 松本望
フルート: 瀬尾和紀
ヴァイオリン: 瀬﨑明日香
ヴァイオリン: 野田明斗子
ヴィオラ: 小峰航一
チェロ: 上森祥平
https://www.cafe-montage.com/symphony/191206.html

 

19年12月7日(土) 20:00開演
「L.v.ベートーヴェン」
ピアノ: 菊地裕介
ヴァイオリン: 瀬﨑明日香
ヴィオラ: 小峰航一
チェロ: 上森祥平
https://www.cafe-montage.com/symphony/191207.html

モーツァルト追悼 失われた遺作

ホムンクルス:
このやさしい水の中では、何を照らし出そうとも、何から何までが実に魅力がある。

タレス:
…あれは、プロメテウスにおびき出されたホムンクルス…やむにやまれぬ憧れを示す兆候なのです。あ、燃え上がった。光って、ああ、もう溶け始めた…。

ヘレナ:
…私はひどく遠方にいるような、またひどく近くにいるような気がしますけれど、それでも「ここにいます、ここに」といわずにはいられません。…一生が終わってしまったような、けれどもこれから始まるような気がします。

ファウスト:
…運命を黙ってうけていましょう。「在る」ということは義務です。よしそれが瞬時の事であろうとも。

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明日、12月5日はモーツァルトの命日。
かねてから書きたい、書かなければいけない…とずっと思っていたことをようやく書きます。
でも、よほどのモーツァルト好きにしか読んでもらえないに決まってる!と思われる内容に終始します。ごめんなさい。

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悲愴ソナタ バガテルする晩年

ブラウン男爵が、ベートーヴェンの前に立ちはだかっていた。

ブラウン男爵は絹産業で財を成し、オーストリア随一の富豪として宮廷で重宝され、1794年にブルク劇場とケルントナートーア劇場の支配人となったあと、宮廷銀行の一員にもなっていた。

ブラウン男爵にはジョゼフィーネという奥さんがいた。
ブラウン男爵は奥さんがピアノが上手なのを自慢にしていた。
ベートーヴェンは、その奥さんに作品を献呈することで、何か便宜が図られるものと思っていたらしい。1799年、ベートーヴェンはブラウン男爵の奥さんに2つのピアノソナタ op.14を捧げた。しかし、ブラウン男爵は簡単には懐柔されなかった。

1800年のブルク劇場でのデビュー演奏会の大成功の後で徐々に作曲を進め、翌年にブラン男爵の奥さんにホルンソナタ op.17を献呈し、翌1802年、だんだんに耳が悪くなっていく中で、ようやく完成させた交響曲第2番を4月に初演したいと申請したが、ブラウン男爵は劇場の使用を許さなかった。

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