ハイドン師匠とルードヴィヒ

ベートーヴェンの最初のピアノ三重奏の初演を聴いたハイドンが、ハ短調の第3番だけは「出版しない方がいい」とベートーヴェンに助言したという有名な話がある。ベートーヴェンが第3番を自信作と思っていたこととの認識の違いを、新旧世代交代とか、ハイドンの新音楽への無理解の象徴とするのは釈然としない。

なぜハイドンがそのような事を言ったのか。
ベートーヴェンは1795年の時点で少なくとも二つのハ短調作品を書いていた。その一つがピアノ三重奏曲 第3番で、もう一つが後に作品37として出版されるピアノ協奏曲である。
この二つの作品はいずれもモーツァルトのハ短調 ピアノ協奏曲をモデルにしている。

モーツァルトのハ短調 ピアノ協奏曲K.491は『フィガロの結婚』K.492とほぼ同時期に作曲され、しかし彼の生前には出版されなかった。ベートーヴェンはいつこの作品の存在を知っただろう。一番早い可能性としては、16歳の時のウィーン訪問でモーツァルトに会った時である。

ハイドンの助言について不思議なのは、彼が「出版するな」と言った時に、ピアノ三重奏曲はすでに出版されていたということである。では、ハイドンが出版するなと言ったのはどの作品だったのだろうか。通説ではベートーヴェンは師匠の助言を守らずに自信作の出版を刊行したということになっているのだけれど。

さて、ベートーヴェンはハイドンがロンドンに行ったりしている間はアルブレヒツベルガーに習ったりしていたが、ウィーンにいる間はハイドン自身のレッスンを受けていた。初演を聴くまでもなく、ハイドンは弟子が取り組んでいる作品については把握していただろうというのは、想像が過ぎるだろうか。

想像上の結論だけを書いてしまうと、ハイドンが助言したのは同じハ短調でもピアノ協奏曲の方だったのではないか。そうだとすると、ベートーヴェンはハイドンの助言を守ったことになる。彼は同時に取り組んでいた第1番とすでに完成していた第2番の協奏曲のみを発表した。

モーツァルトのハ短調ピアノ協奏曲が初めて出版された1800年、ベートーヴェンはハ短調協奏曲の初演を目指して動き出した。結局、初演は作曲も指揮も出来なくなっていたハイドンが引退した1803年のことであった。
この協奏曲が今の形で残されたのが、ハイドンの功績だとすれば…そんな事を想像してみた。

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2019年7月25日(木) 20:00開演
「L.v.ベートーヴェン」
– ピアノ三重奏曲全曲 vol.2 –
ヴァイオリン: 上里はな子
チェロ: 向井航
ピアノ: 松本和将

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