いま、カフェ・モンタージュの役割

今年に入ってからの新ウィルス問題が、最早ある特定の地域あるいは日本だけでなく世界的な規模に膨らんだ今、公演の開催に向けた意識をまったく新たな段階に移す必要があると考えました。

そのことについて、今から書きます。
その前に、もしこの文章をいまから読もうとされていて、フィクションというものの実在を疑っている方がいらっしゃるとすれば、その方にとってはこの文章が全く意味をなさないかも知れず、読むことがまったく時間の無駄でさえあるかも知れないということを、まずお断りしておきたいと思います。

それでは、書きます。

私はカフェ・モンタージュというカフェの形をした劇場を経営しています。
数日前までは、自分が感染しないようにという意識がまだ優勢であったことを、私は白状しなければいけません。
しかし今となっては、誠に残念なことに、自分はすでに感染をしているという意識を持たなければならないのであり、それを人に伝染させてはいけないという行動をとらなければいけないという意識を持つことを強制されるに至っています。

では、私以外の誰が感染していないかといえば、おそらくはこの世の誰もが感染していると認識しなければ理屈が合わないというところまで、当然のごとく、この意識は伸びていきます。いま、そのことを疑っている人がいるでしょうか。

ここに私はひとつのフィクションを導入しなければいけないのですが、それには嘗てフランスでシャルリ・エブドという雑誌がテロリストによって襲撃されたときの事を例にとりたいと思います。あの残忍な事件のあと、ある一定の知識人の間で「私はシャルリである」という運動が起きました。彼らはそう言うことによってテロリストの標的に立候補するという意思を表明するという行為を示したのであり、その立候補者の数を無限にまで拡大することでテロリストの目的を無効化しようとしたのです。しかし、彼らが見た目も思想も、シャルリでないのは明らかで、彼らはその時まさにフィクションの中で、テロリストに屈しないための意識を保とうとしたのです。

いまここで打ち立てたいフィクションとは、カフェ・モンタージュに来る人は、私を含めてみな新コロナウィルスの感染者であるということです。
カフェ・モンタージュに来る人がみな、例えば20人いる中で必ず15人いるコロナ感染者のひとりなのであって、残りの感染していない5人に伝染させてはいけないと細心の注意を払って生活し、音楽を聴いている15人の中のひとりだということなのです。

私はコロナに感染している。
熱が無い限りは普通に生活をすることを宣言し、しかし、隣にいるかもしれない、20人のうち5人の貴重な無感染者にウィルスを与えないように気を配る生活を送っている。それは消毒または石鹸洗浄された手を可能な限り用意しておく事であり、話すときには口にハンカチをあてておくことであり、たまに具合の悪い時には家でじっとして休んでいることである。それは、これまでに思っていた普通の生活とどのように違うのだろうか。

私はコロナに感染している。
そこにいる誰もが不快なほどに混雑している電車やバスを避け、なるべく安全で快適な車両を選んで移動をしている。その中の20人に15人は自分と同じ感染者なのだとしても、残る5人は無感染のままでいて欲しいという望みを、自分の思いつく限りにおいて行動にうつしている。

私はコロナに感染している。
人との無差別な抱擁、それこそが愛であるとされていた行動が真っ先に断罪される世の中、「また愛が私達を引き裂く」絶望がいつでも現実のものであるこの世の中で、私はコロナ感染者として生活することを選んだのである。そして、その数が多い方が、数少ないコロナ無感染者のみならず、自分の命と生活、そして願わくば愛の存在を守ってくれるのではないかと、本気で信じるに至ったのである。

自分だけはコロナに感染していないと自分で言っている人に対して、私はどのように接すればよいかわからない。

だから、カフェ・モンタージュに来る人は、みなコロナ感染者でなければいけない。
それは、カフェの中にごく稀に無感染者がいるかもしれないという危機意識をもった、コロナ感染者でなければいけない。

私はあなたをコロナ感染者にしたくないから、コロナ感染者として生活することを選んだ。
この事態が終息すれば私は、あの時シャルリを名乗った人たちと同様、あなたの記憶から消えてしまうでしょう。

私はコロナに感染しています。