ラヴェル、スカボロー・フェア

ドビュッシーはクローシュ-Croche氏というペンネームで評論を書いていたのだが、その活動の重要性を強調するルイ・ラロワに対して、「何も聞いていない人に向かって話して、それが何になるだろう」と書き送っていた。ラロワはのちにドビュッシーの評伝を初めて書いた人物である。

「言うべきことは確かにある。でも音楽が、隣人よりも声高に話す人々が作った小さな共和国のそれぞれに分かれている中で、誰に対してものを言えばいいのだろう。ベートーヴェンとラヴェルの間を行き来している人に!天才という、愚かでバカバカしい役回りを引き受ける人間はもういなくなった。」(10.Mar.1906 – Debussy to Laloy)

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カルメン、幻想と夜の歌

果たして、自分はカルメンの物語を知っていただろうか。
ロームシアターでの小澤征爾音楽塾公演の「カルメン」を観て、
これまで自分は知らなかったのだと思った。

カルメンを観たのは、初めてではない。
2000年にウィーン国立歌劇場で、ド・ビリーの指揮。
カルメンはアグネス・バルツァだった。
BS放送で見たのと同じ人がカルメンを歌っている… というだけで胸がいっぱいになり、カルメンが登場した瞬間から圧倒的な熱量を受け続けた強烈な思い出ではあるけれども、作品に関しては、カルメンのお話は知っている…、音楽も有名、とだけ思っていた。

でも今回、自分は知らなかったものを観てしまった。

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メンデルスゾーン・バルトルディ

散策し、山に登るというロマン派の象徴を舞台にした「二百十日」という短編を漱石が書いている。温泉宿にて、かみ合う必要のない会話に終始し何の事件も起こらないまま、時間が来て山に登りはじめるものの、その日がちょうど二百十日の嵐にあたっていて、結局山に登ることが出来ず、また登ろうか…そんな話。

今日はフェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディの210年目の誕生日だという。
さまざまな音楽を聴く中で、人が拠り所としているものの大部分を作り上げた、この天才について、聴き手として何か言うべきことはないのか。

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牧神とブーレーズ

「管理された偶然性」とはなんであったのか。
ピエール・ブーレーズは「マルトー」を書いた後、ジョン・ケージとの関係を清算するように、その出会いのきっかけとなったものの、すでに長く離れていた古典の形式に立ち戻って、ピアノソナタ 第3番に着手し、1956年、それは完成されないままにされ、ブーレーズは口を開いた。

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ドビュッシー追悼

ドビュッシーについて

アルベール・ルーセルの追悼
「まずドビュッシーに感謝しなければならない。 フランス音楽を、革命的な、しかし今日では自明と思われる手法で、我々をその趣味と平衡感覚そして新たな言語でもってかつての伝統に引き戻し、ワグネリアンの手中から救ったのだから。和声の発見や霊感に満ちた大胆さ、そして独立という事の大切な教義より以上の、我々彼から学んだもの…
それは、トリスタンの燃える熱情と春の祭典の恐るべき爆発、その二つの間に、牧神の午後のフルートの攪拌が齎した不滅の声であった。」
アルベール・ルーセル(作曲家)

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ドビュッシーのいない世界。

1848年12月
革命の混乱を一段落させる形で、ハプスブルク最後の皇帝となったフランツ・ヨーゼフ1世が18歳にして皇帝に即位した、その1週間後にフランスで行われた大統領選挙で75%に迫る票を獲得して勝利したのがルイ・ナポレオン、その3年後のクーデターを経て皇帝に就任したナポレオン三世である。

1861年3月
ナポレオン三世の勅命によって、ワーグナーの「タンホイザー」が大改造後のパリで上演された。娯楽要素の少ない音楽劇の上演を妨害する笛や怒号がオペラ座に鳴り響く中、陶酔状態で舞台を見つめていたシャルル・ボードレールの姿があった。翌1862年、クロード・ドビュッシーが生まれた。
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「ペレアスとメリザンド」 ミンコフスキ=オーケストラ・アンサンブル金沢

ことのはじめ
さまよう 出会う 魅惑される 誘惑する
運命なきところに 運命の糸が芽生える

稀有の天才による最高傑作とされ、しかしその実演に触れる機会にめぐまれず ドビュッシーについて考えるたびに、後ろめたい気持ちにさせられてきた。

秘かな、でも最大限の期待と覚悟をもって臨んだ2018年7月30日
「ペレアスとメリザンド」を初めて観た。 “「ペレアスとメリザンド」 ミンコフスキ=オーケストラ・アンサンブル金沢” の続きを読む