ベートーヴェン モーツァルトとの邂逅

ベートーヴェンは作品1からすごいというのは、ビートルズがPlease please meからすごいというのと同じである。どちらもいわゆるファーストとして知られるものを発表したのは20歳の頃、それまでの活動を通じてすでに完成されていたとすれば、いつの段階で完成されたのだろうか。

ウィーン以前、ベートーヴェンの神童時代…
といっても、モーツァルトやメンデルスゾーンのようにははっきりと認識できていないから、少し整理してみたくなった。

モーツァルトの父はザルツブルグの宮廷作曲家であった。
ベートーヴェンはお祖父さんがボンの宮廷楽長だった。
メンデルスゾーンのお祖父さんはモーゼスだった。

ボンにはケルン選帝侯の宮廷があり、フランス文化の流入が絶えずあったと同時に、ベートーヴェンが10歳の頃にはマリア・テレジアの息子が次の選帝侯として控えていた時期で、ウィーン文化圏との交流も盛んになっていた。ボンの宮廷楽長は自分で作曲する必要がなかったという。

だから、ベートーヴェンは極めて恵まれた環境の中にいたといえる。家庭環境の範囲で幼い頃からフランスの宮廷音楽に触れていたのと同時に、グルックやサリエリなど、ボンで当時上演されていたとされるウィーン歌劇も観ていたかもしれない。モーツァルトの作品がボンで知られていたかについてはわからない。

1783年、13歳のベートーヴェンは『選帝侯ソナタ』といわれる3曲のピアノソナタを作曲、その冒頭には長い献呈の辞が掲げられていて「4歳の時以来、音楽は私が若くして取り組む第一のものとなりました」とある。献呈の辞があるということは、これは当時出版されたのであったが、その出版社がボスラー社(Heinrich Bossler)であったというのを見て…とても驚いた。

ハインリヒ・ボスラーというのは、モーツァルトの死後にこの世で初めてモーツァルトの伝記を書いた人である。自分がこの人の名前に注目したのは、作曲の経緯がよく分かっていないモーツァルトのフルート四重奏曲 第3番 ハ長調をモーツァルトの生前に出版した人だと知った時が最初であった。

モーツァルトがマンハイム=パリ時代に書いたフルート四重奏曲 第1番 ニ長調の譜面をずっと父に預けていたのを、父が死の床についた時をもって手元に取り戻した後、それをリバイバルさせる形で1788年に完成したのが不滅の弦楽五重奏曲 ト短調 K.516であるという仮説を立てたことがあった。

この弦楽五重奏曲がモーツァルトの父の死と関連があるとはよく言われているが、それが母との別れの旅の上で生まれた作品に重ね合わせて書かれているという考えに囚われてしまって、同じ1788年にフルート四重奏曲 第3番を出版したボスラーという人との関係が、とても気になっていた。

現存するモーツァルトの書簡の中に、ボスラーに関する記述は見当たらないが、ボスラーは1783年頃にモーツァルトと知り合ったらしい。翌1784年にボスラーが自身の手によるモーツァルトの影絵を印刷したものが、ボンのベートーヴェンハウスに所蔵されている。
https://da.beethoven.de/sixcms/detail.php…

ボスラーはモーツァルトのピアノ協奏曲を彼の生前に出版した数少ない出版社の一つであり(K.453, 1787年出版)、晩年のモーツァルトの消息を伝えてくれる貴重な証言者でもある。モーツァルトの所にグラス・ハーモニカの天才、キルヒゲスナーを連れてきたのも彼であった。

ボスラーがウィーンでモーツァルトの他、様々な作曲家の版権を手にいれたのは、彼が持ち運びの容易な小型印刷機を所有していて、その場で交渉できたからだという話で、つまりベートヴェンの作品も同じくボスラー本人が持ってきた印刷機で同時期に印刷されていたのだとすれば、どういう事になるだろう。

つまりボスラーは若きベートーヴェンの『選帝侯ソナタ』が「モーツァルトの再来」という触れ込みで出版されるその現場の中心にいて、その前後にモーツァルトと知り合いになっているということになる。1783年というのは、彼らにとってそのような巡り合わせの年であった。

そして1785年、ベートーヴェンは15歳にして3つのピアノ四重奏曲を書く。これは後に彼がウィーンで完成することになる作品1以降を予言する作品集として大変に重要なものだが、これは彼の生前には出版されなかった。そして、モーツァルトのピアノ四重奏曲 第1番がこの年末に完成されている。

1787年1月、まだ16歳のベートーヴェンは一人でウィーンに向けて旅立った。彼がウィーンに滞在したのは僅か2週間足らずと言われていたのが、最近になってほぼ2カ月半だという事が分かったらしい。その間にモーツァルトに会っていたのだとすれば、その横にボスラーの姿はなかったのであろうか。

ちょうどその頃、『フィガロの結婚』を成功させたばかりのモーツァルトは3つの弦楽五重奏曲を書いていた。それは母が死んだ10年前の旅行中に完成させた作品を今一度掘り起こして、今日の我の姿に映し直し、死にゆく父に捧げる作品群であった。ベートーヴェンは3月末にウィーンを出発した。

1787年4月、モーツァルトは病に臥せる父に「死は慰めであり、人生の最終目標」であると最後の手紙を書いた。そこには彼が読んでいたモーゼス・メンデルスゾーン哲学の影響があると取り沙汰されている。

5月、母が危篤だと聞いたベートーヴェンは急いでボンに帰った。
その月末、モーツァルトは父を失った。
そのおよそ2か月後、ベートーヴェンは母を失った。

・・・・

’19年7月24日(水)&25日(木)
「L.v.ベートーヴェン」- ピアノ三重奏曲
松本和将 piano
上里はな子 violin
向井航 cello
〔vol.1〕7/24(水) 第1&4番
https://www.cafe-montage.com/prg/190724.html
〔vol.2〕7/25(木) 第2&3番
https://www.cafe-montage.com/prg/190725.html