アイヴズの、教え給いし歌

あの子供の頃の景色、お気に入りの思い出を描いてみせることは、心にとってどれほど愛しいことだろう! - “The Old Oaken Bucket”

20世紀の作曲家たちが、それぞれの国から消えゆく運命にあった旋律を手にモダニズムの扉を叩いたのは、おそらく偶然ではない。子供の頃の風景を思い出して、描いて人に見せることがどうすれば出来るだろうかと彼らは問うた。

歌を口ずさめばいいのだと、20世紀の困難な時代において、彼らは言った。
まずチャールズ・アイヴズが歌い出した。

「夜がやってくる。それまでに仕事を終わらせよう」 “アイヴズの、教え給いし歌” の続きを読む

シューベルトを完成させる

すでに重要な歌曲を書いていたシューベルトが、満を持してはじめてのピアノソナタを書き始めたのは1815年の事、それはベートーヴェンが長い沈黙を破ってop.101とop.102のソナタを書き始めたのと同じ年であった。

二人の天才が生活していたウィーンという狭い街に、1815年、どのような色彩そして香りが振り撒かれたというのだろう。ある時代のはじまり、それはまさにウィーン会議の年であって、ヨーロッパ各国の重要人物がウィーンに齎した何かが、彼ら二人をしてソナタを書けと促したのだったのだろうか。 “シューベルトを完成させる” の続きを読む

完成するシューベルト

作曲家は 早く死のうが長生きしようが、晩年に完成する。
それは本当なのだろう。

しかし、シューベルトの到達点のひとつとして『幻想ソナタ』をみていたロベルト・シューマンが、はじめて最後の3つのソナタが登場した時、それを見て瞬時にシューベルト創作の後退と認識し「作曲家の初期の作品と取り違えかねなかった」と言ったことの意味を考えると、晩年に完成するシューベルトの物語が、ロマン派においては今と違う形であったことが分かる。 “完成するシューベルト” の続きを読む

ベートーヴェンとプロイセンの幽霊

幽霊とは、マクベスが魔女の宴の中で見たバンクォーの幽霊の事だろうか。

友人コリンが脚色したシェイクスピアのマクベスに、ベートーヴェンが音楽をつけようとしていたのは1808年、交響曲第5番と第6番を続けて書いていた時期の事であった。
この二人の共同作業からすでに『コリオラン序曲』という傑作が生まれていて、マクベスは本格的なオペラとなるはずであったかどうか、コリンが1811年に死んでしまったためにいくつかのスケッチが残されたのみとなった。

ベートーヴェンのいわゆる”田園スケッチ帳”(1808)にそのマクベスの導入がほんの少し記されていて、ベートーヴェンがその時すでにオペラ『マクベス』に取り掛かっていたという証拠となっているのだが、そのすぐ横に別の楽想のスケッチがあって、それは後にピアノ三重奏曲 第5番の緩徐楽章に使われることになった。

『幽霊』については、ひとまずこのくらいにしてベートーヴェンの1808年を改めて整理してみたい。

op.67 交響曲 第5番『運命』
op.68 交響曲 第6番『田園』
op.69 チェロソナタ 第3番
op.70-1 ピアノ三重奏曲 第5番『幽霊』
op.70-2 ピアノ三重奏曲 第6番

作品番号順に名作がずらり‥。
その中で一番知られていない第6番、つまり『幽霊』ではない方のピアノ三重奏曲の中にも何か物語があるのではないだろうか。

ピアノ三重奏曲 第6番 変ホ長調 op.70-2
皇帝協奏曲とハープ四重奏、そして告別ソナタという変ホ長調の名作が次々と生み出される、その前触れとなったこの重要作品は、おそらくベートーヴェンが過去に書いたチェロソナタ op.5が母体となっていて、その序奏は後に書かれることになる神秘的な第4番のチェロソナタ op.102-1に引き継がれている。

その序奏の後に現われる第1主題を聴くと、この作品が翌年に生まれるフェリックス・メンデルスゾーンによる変ホ長調の弦楽四重奏 第1番の母体の一つになっていることが判明する。 それにしても…、メンデルスゾーンの才能が容赦なく炸裂している。

 

 

話を少し戻して、この作品の母体がチェロソナタであるといった、その2つのチェロソナタop.5について少し調べてみる。

時は1796年、リヒノフスキー侯爵はベートーヴェンをベルリンに連れて行って、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世に会わせようとした。この王様は先代の”フリードリヒ大王”のようにフリーメーソンとして高い位にあったわけではないが、晩年の先大王が「裏切りと陰謀の司祭」と恐れたヴェルナーの誘いで薔薇の騎士団に入団して降霊術にはまり、宮殿の離れで儀式三昧をし、神秘主義家の妻を持つリヒノフスキーとはおそらくそちらでも顔を合わせる間柄であった。

ベートーヴェンはここでもモーツァルトと同じ道を歩いた。
リヒノフスキー侯爵は7年前にもモーツァルトを連れて、同じことをしたのだが、それはフリードリヒ大王の死後、フリードリヒ・ヴィルヘルム2世が王位を受け継いでからまだ間もない事であった。

モーツァルトが変奏曲を捧げた伝説のチェリスト、デュポールに会い、プロイセン宮殿の音楽家の水準の高さに目を見張り、その中でも王の甥でありながら「決して王族のようでなく、ただひたすらに達者なピアノを弾く…」ルイ・フェルディナント王子との出会いはベートーヴェンに決定的な印象を与えた。
その大興奮の中でベートーヴェンはチェロソナタを作曲し、その場でデュポールとの共演で初演し、フリードリヒ・ヴィルヘルム2世に献呈した。ベートーヴェンがプロイセンを去った後、フリードリヒ・ヴィルヘルム2世はすぐに死んだ。

ベルリンでの出会いでベートーヴェンが感じたのと同じもしくはもっと強烈な印象を、ルイ・フェルディナント王子はベートーヴェンに対して抱いていた。
王子はベートーヴェンがウィーンで書いた作品を手に入る限り手に入れ、その主題や展開を手本にして大量に作曲し、デュポールやヴァイオリンのピエール・ロードと演奏した。

戦略家としても優れていたルイ・フェルディナント王子はナポレオンとの戦争においても戦功をあげていたが、音楽を片時も手放したことはなく、1804年にウィーンに立ち寄った際にもベートーヴェンを訪ね、ベートーヴェンは長年かけて書き上げたピアノ協奏曲 第3番をルイ・フェルディナント王子に献呈した。

1806年、ウィーンにおいてもナポレオンの戦火が激しくなる中、ルイ・フェルディナント王子が戦死したという知らせがベートーヴェンのもとに届いた。交響曲第3番の『英雄』がルイ・フェルディナント王子のことであるというのは、いくつかある説のひとつではあるけれど、ともかくベートーヴェンの落胆ぶりはすごかったらしい。

ルイ・フェルディナント王子の死が呼び寄せたものであるかのように、ベートーヴェンは比類のない名作を次々と生み出し、私生活においても転機を迎えていた。
1806年、ベートーヴェンの甥カールが誕生した。
1806年、リヒノフスキー侯爵と大喧嘩をした。
そしてこの年以降のベートーヴェンの運命を握る二人、つまりルドルフ大公そしてエルデーディ公爵夫人との関係が急激に深まっていく。

リヒノフスキー侯爵は芸術家のパトロンとして多大な功績を残した人だけれど、ほぼ死ぬ前のモーツァルトに対して借金の返済を迫るなど強烈なところもあったらしい人で、ベートーヴェンとの喧嘩も一通りではない激しいものだったようである。

ピアノ三重奏曲 第6番の第3楽章はリヒノフスキー侯爵に献呈した『葬送ソナタ』のパロディに端を発しているが、その中でベートーヴェンが彼との複雑な関係を吐露しているとみるのは徒労であろうか。変ホ長調といえばモーツァルトの時代にはフリーメーソンの調ともされ、薔薇十字団の降霊術で呼び出されたリヒノフスキーと『葬送ソナタ』、などといってみれば、そこにもマクベスの幽霊は出現するのではないだろうか。



そういえばベートーヴェンはかつてピアノ三重奏曲 作品1もリヒノフスキーに捧げていたのであった。

ルイ・フェルディナント王子には妹がいて、その妹ルイーゼはポーランドのラジヴィル侯爵と大恋愛の末に結婚し、ベートーヴェンは「歓喜の歌」の原型の一つである序曲「命名祝日」op.115を侯爵に捧げている。
ラジヴィル侯爵夫妻は後にショパンそしてメンデルスゾーンの有力なパトロンとなり、それぞれから一番最初の室内楽作品を献呈されている。

降霊術に熱心だったフリードリヒ・ヴィルヘルム2世の次に王座に就いたフリードリヒ・ヴィルヘルム3世に、ベートーヴェンは交響曲 第9番を献呈した。
その返礼としてフリードリヒ・ヴィルヘルム3世からは指輪が送られたが、ベートーヴェンはそれをすぐに質屋に売ってしまった。

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2020年1月16日(木) 20:00開演
「L.v.ベートーヴェン」
– ピアノ三重奏曲 vol.3 –

ヴァイオリン: 上里はな子
チェロ: 向井航
ピアノ: 松本和将
https://www.cafe-montage.com/prg/200116.html

バルトークの憂鬱 対話をもとめて

第一次大戦がおわってまもなく、バルトークの音楽は急激に世間から賞賛を得ることになった。それまで孤独を極めていたバルトークは喜んだ。

しかし、彼はすぐに塞ぎ込むのだった。
民謡を採取しての旋律の研究がまだ中途のままであったのに、戦争で分断されたハンガリーの地方への道が閉ざされたままであったからである。それはバルトークにとっては未来への道をふさがれているのと同じことであった。 “バルトークの憂鬱 対話をもとめて” の続きを読む

サンサーンス 大きすぎて見えない

いずれも1850年代、サンサーンスがまだ20歳前後だった時の話。

時の大ソプラノ、ポーリーヌ・ヴィアルドーとサンサーンスの共演で演奏されたシューベルトの『魔王』はパリで大センセーションを起こした。

サンサーンスは交響曲『レリオ』をピアノ版に編曲して、晩年のベルリオーズのお気に入りになった。その後ツアーにピアニストとしてついていったサンサーンスは、シャンパンとコーヒーとタバコの大量摂取を老巨匠に我慢させるのに苦労したという。でも、老巨匠はいずれも大量に楽しんだ末に死んでしまったという。 “サンサーンス 大きすぎて見えない” の続きを読む

早すぎたサンサーンス 遅すぎた世紀末

1859年、パブロ・サラサーテがサンサーンスを訪問した。

神童として名を馳せ、2年前にパリ音楽院を首席で卒業してソリストとしてすでに有名になっていた15歳のサラサーテは、24歳の作曲家に向かって何か自分のために書いて欲しいといった。サンサーンスはその場で快諾すると同時に、その作品がイ短調の小さな協奏曲になるだろうと15歳のヴァイオリニストに言った。 “早すぎたサンサーンス 遅すぎた世紀末” の続きを読む

古楽の精神 サンサーンスとラモー

古楽はいつ生まれたか。

古楽とは、ある古い時代の音楽一般の呼称ではない。
作品が書かれたその時の演奏習慣や趣味をひもといて、ありのままのすがたとは言わないまでも、その作品が持つ精神を現在に蘇らせようとするときに初めて「古楽」は演奏される。 “古楽の精神 サンサーンスとラモー” の続きを読む

シェーンベルク 夢のすすめ

「二、三十年前も前には、詩人、ことに抒情詩人は…」と1946年にシェーンベルクは語りだした。

「単刀直入な言葉を使わずに…ぼかした表現法を用いるのがよい、とされていたものである。従って、事実や考えは夢から出てきたものように登場し、読者にただ夢見るように勧めるのである…しかし、このような考えはもう一般的ではない。」と言いながら、そうした考えがいかに広く流布して今も一般的であるかということについて、シェーンベルクは書き続けるのである。

「真の作曲家が作曲する理由は唯一 ―それが自分自身楽しいから― であると私は信じている」とシェーンベルクは言い始めた。
兵舎のパーティーのために作曲しているシェーンベルクを見て、同僚が『シェーンベルクは手紙を書くような速さで作曲をする』と驚いたとき、確かに「手紙を書くのは作曲するのと同じくらい時間がかかることが多い」とシェーンベルクは思ったそうだ。

「動機を組み合わせる作業はインスピレーションの働きによって自然発生的に行われるのではなく、音楽以外の概念、すなわち大脳反射の産物…」と言いながら、『室内交響曲』については「インスピレーションのおもむくまま作曲に着手したのは確かである」とシェーンベルクは回想し始める。しかしそう言ってしまう事で、「インスピレーションが完全な形のプレゼントを作曲家にしてくれることもあるのだ、という結論が引き出されかねない」とシェーンベルクは警戒し始める。

悲惨な第二次大戦が終わり、「芸術において最高の価値を生み出すものは、すべて頭脳とともに心をも示す」と断言するシェーンベルクは、一方ではバルザックの『セラフィータ』の中に出てくる、首が短く「心に頭が牛耳られている人間」のようにみられやすい自分を意識しながらも、自分の大脳反射の速度を惜しげもなく開陳して、それでも心のおもむくままに『室内交響曲』の作曲を始めたころのことを、かつて見た夢のように懐かしんでいる。

何のために作曲するのか。
かつて大交響曲が抱いた大空の断片と、それを啄んでいく鳥たちの声が絶えずせめぎ合っているシェーンベルクの『室内交響曲』を聴いている。
世界を変えた男が一生問われ続けた、その答えを探してまだそのあたりをさまよっているようだ。

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2019年12月9日(月) 20:00開演
「A.シェーンベルク」
ピアノ: 松本望
フルート: 瀬尾和紀
クラリネット: 小谷口直子
ヴァイオリン: 瀬﨑明日香
ヴィオラ: 小峰航一
チェロ: 上森祥平
https://www.cafe-montage.com/symphony/191209.html