フォーレ、水面に映る世界

「いま、なにか作曲をしていらっしゃいますか?」

死までの1年間、ガブリエル・フォーレはそのように尋ねられると決まって「いいえ」と答え、いま自分が弦楽四重奏曲を書いているという事実を隠し続けていた。

1922年。
恩師であり、唯一無二の親友、互いにとって最大の理解者であったカミーユ・サンサーンスの死から1か月後、 “フォーレ、水面に映る世界” の続きを読む

クープランに、墓はない。

ラヴェルが中心となって設立した独立音楽協会は、1910年4月20日に第1回となる音楽会を開催し、ロジェ=デュカス、カプレ、ドビュッシー、ドラージュ、コダーイの作曲が演奏されたほか、ラヴェルのピアノ組曲『マ・メール・ロワ』とフォーレの歌曲集『イヴの歌』の全曲初演が行われた。

『ガスパールの夜』とほぼ同時期に書かれた、ペローの童話集のための『眠れる美女のパヴァーヌ』を押し広げた4手連弾のピアノ曲集『マ・メール・ロワ』は、同じ年にピアノ独奏版がラヴェルの友人で出版社デュランの従弟でもある、ジャック・シャルロによって初演された。

独立音楽協会の華々しい立ち上げに成功したラヴェルは、ディアギレフから委嘱されていたバレエの新作、『ダフニスとクロエ』のピアノ版を翌5月には完成させ、自信に満ちた表情でオーケストレーションに取り掛かっていた、その時、パリに激震が走った。1910年6月25日『火の鳥』がピエルネの指揮で初演されたのである。 “クープランに、墓はない。” の続きを読む

ラヴェル、スカボロー・フェア

ドビュッシーはクローシュ-Croche氏というペンネームで評論を書いていたのだが、その活動の重要性を強調するルイ・ラロワに対して、「何も聞いていない人に向かって話して、それが何になるだろう」と書き送っていた。ラロワはのちにドビュッシーの評伝を初めて書いた人物である。

「言うべきことは確かにある。でも音楽が、隣人よりも声高に話す人々が作った小さな共和国のそれぞれに分かれている中で、誰に対してものを言えばいいのだろう。ベートーヴェンとラヴェルの間を行き来している人に!天才という、愚かでバカバカしい役回りを引き受ける人間はもういなくなった。」(10.Mar.1906 – Debussy to Laloy)

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事象の地平線、時間の終り

ブラックホールの撮影に成功した、ということであった。
そこには「事象の地平線」という、極端に詩的な、ひとつの言葉が置かれていた。

27歳で戦死した詩人ミルモンの遺作による歌曲集『幻想の水平線』を思い出した。フォーレの最晩年、1921年の作品である。

船がすべて出払った港に、一人たたずむ詩人の叫び。
「私にお前たちの魂を繋ぎとめることは出来ない。
お前たちには私の知らない、はるか遠い世界が必要なのだ。」

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夜のガスパール

「詩は翻訳できない」

フランス語の詩を日本語で読んでも仕方がないと言い、その困難の中にも詩を探し当てなければいけないと言う。

ベルトランの詩ではなく、散文を抜き出してみた。

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芸術を探し求めたことのある者を詩人というならば。
芸術というものが幻想でさえなければ。
幻想‥ 私もまた芸術を求めた!

芸術は常に対照的な二つの面を持っている。
片面はレンブラントの、もう片面はジャック・カローの風貌を伝える、一枚のメダルのようなものである。レンブラントとカロー風の幻想曲以外にも、ここには、様々な巨匠たちのエチュードが描かれている。

私は自然の中に、まだ芸術に欠けているものを見出せると信じた。
そこで自然を‥自然の光景を研究した。
次いで人間の事跡を研究した。
神と愛とが芸術の中にある「感情」であるならば―
悪魔こそ、芸術の中にある≪思想≫ではあるまいか?

夜のガスパールは、他のところにいないとすれば、地獄にいる。
夜のガスパールとは‥悪魔だ。私は彼の本を出版しよう。

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2016年3月28日(月)20:00開演
「夜のガスパール」
ピアノ: 奈良田朋子
http://www.cafe-montage.com/prg/160328.html