「私は非常に怒っている」

ヴィルヘルム・ヨーゼフ・フォン・ヴァシレフスキというのは、ライプツィヒでメンデルスゾーンやダヴィッド、そしてシューマンのもとで学んだヴァイオリニストで、シューマンが音楽監督としてデュッセルドルフに引っ越した際にコンサートマスターとして呼ばれ、シューマンの死まで傍にいたのち、最初のシューマン伝記となる本を書いた人である。
 
「あの作品を書いたときには、非常に怒っていた」と、シューマンはそのヴァシレフスキに言ったということなのである。
 
それは1951年の9月のこと、シューマンが何に怒っていたかの詳細は不明だ。シューマン晩年の傑作のひとつであるヴァイオリンソナタ 第1番はその「シューマンが絶え間なく癇癪を起していた時に」作曲されたとヴァシレフスキは伝記の中で伝えている。
 
1849年、革命の嵐が去った後、シューマンは疎開先からドレスデンに戻っていた。ワーグナーの逃亡によって空席となっていた歌劇場のポストも、もしくは盟友メンデルスゾーン死後のライプツィヒ・ゲヴァントハウスのポストも、自分には出番が回ってこなかった。ショパンが死に、追悼の式典を開催したいという申し出もドレスデン政府から却下され、シューマンには身を置く場所がどこにもなかった。
 
シューマンは革命には参加しなかったが、思想には共鳴していたというのが定説である。
ということは、同じくドレスデンにいたワーグナーとも共鳴していたことになるのかもしれないのだが、誰もそうはいわない。
そこには何の言葉もない。
 
1842年の4月、ようやく完成した歌劇「リエンツィ」をパリで上演するチャンスがなかなか来ない中で、ドレスデンでの上演が先に現実的になったのでに、ワーグナーは三年暮らしたパリを離れた。
ドレスデンに到着後、すぐにライプツィヒの生家を訪ね、その時にシューマンに会っている。その時シューマンは、演奏旅行でずっと留守だったクララが早く帰ってこないかと待っていたところだった。そこにワーグナーが来た。
シューマンは「過剰なアイデア。多弁極まりなく、とても長くは聞いていられない」と思いながら、しゃべり倒すワーグナーの前で「1時間、ずっと黙っていた」(ワーグナー談)らしいが、ワーグナーがドレスデンに帰ったあと、ほどなくして弦楽四重奏曲の作曲を皮切りに、シューマンの伝説的な「室内楽の年」がはじまった。
 
その3年後、シューマンはワーグナーのいるドレスデンに移り住んでいた。
そこで「トリスタンとイゾルデ」の話を始めたのはシューマンだった。
1849年の革命でワーグナーはドレスデンから逃げ、シューマンは疎開し、二人は離れ離れになった。
 
1850年、ドレスデンを離れてデュッセルドルフの指揮者としてようやく安定するかと思いきや、無愛想だという評判でやはり不安定を極めていたシューマンの地位と情緒であったが、まだカタストロフを迎えるまでには達していなかった。
 
若いころからの課題であるバッハの研究は、その頃にはバッハのヴァイオリンやチェロの無伴奏作品に及んでいて、シューマンは無伴奏作品にピアノ伴奏をつけて、未来の様式にとって必要なものを手に入れようとしていた。

1851年9月1日、リストがヴィトゲンシュタイン侯爵夫人と13歳のコジマを連れてシューマン家を訪ねてきた。マイペースなリストはクララと連弾をしたり、自分の作品を弾いて聴かせたりした。ロベルトは黙って聴いていた。
クララはいつものようにリストの芸術に驚嘆しながらも、そこから逃れようともがいていた。「彼は全ての人を永遠の興奮状態に追い込んでしまう。いつものように悪魔的な絢爛さでピアノを駆使している。彼の作品を聴いていると、気が滅入る…」と、日記に記している。
となりで聴いていたロベルト・シューマンはどうだっただろうか。
この時、もしかして、すでにリストが内輪ではよく演奏していたというピアノソナタ ロ短調の初稿を二人が聴かされた可能性だってあるのだが、詳細はわからない。
 
リストが去ってすぐ、やっぱり室内楽の年が再来した。
シューマンは癇癪を連発しながら、数日間でヴァイオリンソナタ 第1番を書き上げ、クララがヴァシレフスキと試演してみたもののまだ「演奏が仕上がらない」と言ってる横から、バッハ無伴奏作品の研究を昇華させ、シャコンヌと同じニ短調でヴァイオリンソナタ 第2番とピアノ三重奏曲をたて続けに書き上げ、「ああ、なんでこんなことを…」と絶句しながらまだ1曲も弾きこなせないヴァシレフスキにシューマンは、ようやく微笑みながら、「あの”はじめの”は気に入らないんだ」と告げたという。
 

シューマンは、何に激怒していたのだろうか。

ヴァイオリンソナタ 第1番は、憂いに満ちた、しかし決定的な
「熱狂の表情」で開始される。

“Mit leidenschaftlichem Ausdruck”

最後の熱狂、その幕が開いた。


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2021年4月16日(金) 19:00開演
「R.シューマン」
ヴァイオリン:上里はな子
ピアノ:島田彩乃

https://www.cafe-montage.com/prg/210416.html

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