知りたい気持ち

音楽に限らず、何か心惹かれる対象があれば、もっとそのことについて知りたいと思ってしまう。

“音楽”に限らない… まずは”人間”で考えてみよう。
あの人のことを気になるきっかけはなんだったのか… と考えてみる。
たぶん、大手有名商社の勤務で、独身で…と同僚がうわさをしているのを聞いたときからだ。…でも、それだけで興味を持ったなんて、自分で認めるわけにはいかない。あの人が素敵だからだ。でも、なぜ素敵なんだろう…ここにとどまっていたくない。もっと知りたい。

まず、有名商社勤務で、おそらく給料が高いだろう。と思って調べたら、その会社の勤務3年目の平均給与を見るだけでも、やっぱり高いはずだった。
じゃあ、あの人はそのお金を何に使っているんだろう。そこに素敵な理由があるはずだ。

…いくら、人づてに聞いたり、会社帰りに300メートルほど後をつけて調べようと思っても、まったくわからない。
秘密主義なのか、ミステリアス、、いよいよ深みにはまってきた。

「いまお帰りですか?」 声をかけてみた!! 
あの人はふりかえった。
「ああ、このごろよくお見掛けしますね。」

300メートルの尾行、、見られてた!!

それから、なんとなくご挨拶をする日々が続き、徐々に、故郷はどこですかとか、親戚に学校の先生が多いとか、先生といえばこんな人がいましたとか、いろいろ回りくどいお話をするうちに、ようやく本題にたどり着いた。

「奈良公園のシカ、実はあそこの食料は全て私が買って送ってます」

有名商社の高月給、鹿のエサに、、、!?

ものすごく偉いことをされている気がするけど、素敵なのかどうかがすぐに判別つかない。…(※フィクションです)

果たして、自分とあの人が一緒に暮らしたとして、鹿の分は果たして自分にも回ってくるのだろうか。少しくらいは…。

素敵なあの人と、私の未来という、おとぎ話が
私の暮らしが上向くか、鹿がこれからも元気に暮らしていくかという、胸がいたくなるような二項展開(?)に発展している。しかも、おそらくどちらも自分には縁のない話だ。

知りたい気持ちを発展させると、自分の居場所が変わっていく。
音楽でも「のちの音楽の方向性を決定づけた最重要作品」と本で読んで、ある交響曲を聴き始めた、そのあとに自分を待ち受けている、おそらく自分には縁のない話のあれこれが、実際に自分の精神の居場所を変えていくことになる。

ブラームスの二重協奏曲は、バロック時代のコンチェルトグロッソに倣って…、と言われると、よくわからない憧れの気持ちが湧いてくる。ブラームスを聴きながら、同時にバロック時代のコンチェルトグロッソを体験するなど、自分の身には過ぎた体験だと自分は思ってしまう。そして、憧れる。

そこから、いろんな人の書くものを読んだり、脳内でブラームスを300メートル脳内尾行したりするうちに、ベートーヴェンの話になったりする。
「ベートーヴェンが書いた『大公トリオ』の冒頭にも、二重協奏曲の冒頭と同じような場面が出てきますね」とブラームスが言う。

ベートーヴェンのトリオ?たしかに…でも、それとコンチェルトグロッソは何の関係が・・・(※フィクションです)

ブラームスのあとをつけることは、特別に面白い。
そこで一生過ごすことが出来ればどれだけいいだろう。そのような憧れをもたらしてくれるし、ついその姿を追いかけてしまったあとには、まったく想像しなかった道に誘い込んでくれる。
そして、はたと立ち止まって周りを見渡した時には、そこにいるのが自分だけではないこと、そして自分の心の中にはまだあの憧れが残っていることを教えてくれる。

ブラームスの第2番のピアノ四重奏曲も、歌劇のような幻想の世界に誘われて、ときどきモーツァルトやシューベルトとすれ違いながら、まだまだ答えの出ない道をこれからも歩かせてくれる素敵な作品なのだ。

もっともっと、聴いていたいと思う。

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21年9月9日(木) 20:00開演
「J.ブラームス」- ピアノ四重奏 VOL.2

ヴァイオリン:黒川侑
ヴィオラ:小峰航一
チェロ:上森祥平
ピアノ:島田彩乃

https://www.cafe-montage.com/prg/210909.html

バッハのパラドックス

音楽の起源はなんだろうか。
それは音楽が初めて作られたときのことなのか、それとも初めて聴かれた時のことなのか。

例えば、バッハのシャコンヌを人々がいつ初めて聴いたのかなどということは、誰も答えることが出来ない。バッハ自身は、確かにシャコンヌを聴いたといえば聴いたのだろう。しかし、そのシャコンヌは私たちが知っているシャコンヌとは別のものであったかもしれない。楽譜通りに演奏するということが至上命題だとしても、その楽譜は一度聴かれない限りは人の手に渡らないのだから、私たちの知っているシャコンヌはバッハ以外の人によって「聴かれた」シャコンヌであるということは、動かしようのないことではないだろうか。

1840年、ヴァイオリニストのフェルディナント・ダヴィッドがコンサートでバッハのシャコンヌを演奏する際に、友人のメンデルスゾーンがピアノに座って「自由な形式で」伴奏をつけたという記録がある。
フェルディナント・ダヴィッドは、その3年後に校訂譜としてはおそらく最初となるバッハの無伴奏ヴァイオリン作品 全6曲の楽譜を出版した。

その以前にも、バッハの無伴奏作品は出版されていた。有名なものはジムロック社による1802年の出版で、出版社の社長ニクラウス・ジムロックの親友であったベートーヴェンはおそらくその時点で楽譜を入手していた…その証拠があるだろうか?
翌1803年に完成されたヴァイオリンソナタ 第9番 「クロイツェル」の冒頭、その奥に無伴奏パルティータのサラバンド(Sarabande)、もしくはルール(Loure)を聴くことが出来るのであれば、それが証拠になるかも知れないけれど、音楽がそのように「聴かれること」がない限りはそこに何らかの意味を見出すことは出来ない。

そのすぐあと、いつから書き始められたかは不明ながら1806年には完成され初演を迎えたベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲が、1800年から相次いだバッハ作品の出版事業と関係があるかどうか。ソロ冒頭から延々と続くバロックの紡ぎ出し技法について、いくらここで書いたとしても、この協奏曲がそのように「聴かれること」がなければ、それはまだ歴史上の出来事ではない。

それでは、そのようにベートーヴェンが「聴かれたこと」があったかどうか。
おそらくその証拠といえるものが、1847年に出版されたメンデルスゾーン編によるバッハの「シャコンヌ」ではないかというのが、今回提出したい議題でなのある。

フェルディナント・ダヴィッドの演奏におそらくほぼ即興でピアノ伴奏をしてから7年後、つまり1847年。その年に生涯を終えることになるメンデルスゾーンはピアノ伴奏版「シャコンヌ」の決定稿を出版した。

「聴かれたこと」のない歴史からすれば、もともと「無伴奏」として書かれている作品にわざわざ「伴奏」をつけるのは余計なことではないかというのが、もっともな意見である。しかしそれは、音楽が「聴かれたもの」から出来ている側面については顧みない意見なのではないだろうか。

実際に聴いてみよう。そこにはまずベートーヴェンが現れる、そして、ベートーヴェンが聴いたバッハが顔を出す。そのような体験をしてしまうことが、そのまま「大バッハその人」の業績を軽んじることにはなると言われてしまうと、もうここでは何も書くことがなくなってしまう。

メンデルスゾーンの死後、それまでバッハを彼とともに聴いてきたロベルト・シューマンがその仕事を引き継いだ。1853年、シューマンはバッハの無伴奏ヴァイオリン作品 全6曲のピアノ伴奏版を出版した。
これもいまだ「聴かれること」の少ない版ではあるが、ピアノの部分だけを聴くといかにもシューマンの音楽であるにも関わらず、全体的には不思議とこれまでに聴かれてきたバッハの原型を感じ取ることが出来る。

ここには、少し頭が混乱するパラドックスが提示されている。
つまり、シューマンその人がはっきりと刻印されているピアノ伴奏を加えることで、バッハの無伴奏作品がよりバッハらしく聴こえるのであれば、いま自分の聴いているバッハは、シューマンの音楽として「聴かれ続けてきた」バッハということになるのではないかということなのだ。

一度こう書いただけでは、何が何だか、自分でも整理がつかない。
別の言葉で、もう一度書いてみよう。

音楽が「聴かれてきた」歴史に加えて、作品が「書かれた」歴史があると、ここで想定してみる。
そして、例えばベートーヴェンの「クロイツェルソナタ」を演奏されるのを聴くとする。Adagio Sostenutoをこれまで「聴かれてきた」より30%ほど早く、そして続くPrestoを今度は30%おそく聴いてみると、そこに現れるものは「ほぼ大バッハ」である。でも、それだと自分にとって「面白くない」のだとすれば、それはおそらく「聴かれてきた」歴史観がそうさせているに過ぎないのではないだろうか。

1856年、ロベルト・シューマンの死を悼む演奏会においてヨーゼフ・ヨアヒムがバッハのシャコンヌを演奏する、その横に置かれたピアノの前にブラームスが座り、シューマンが書き残したピアノ伴奏を弾きはじめたとのことである。

その時、彼らはそこで何を聴いたのだろうか。

 

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2021年7月21日(水) &22日(木) 20:00開演

ヴァイオリン:石上真由子
ピアノ:江崎萌子

https://www.cafe-montage.com/prg/210721.html

https://www.cafe-montage.com/prg/210722.html

ニコライ・メトネルのこと

メトネルが1933年にパリで書いた「ラフマニノフ」という雑誌記事がある。これは作曲家ラフマニノフについて語りながら、その実、自分語りをしているのではないかと思われる貴重な文章である。

まず登場するのが「名声」についての辛辣な批評だ。
ラフマニノフ、名声ある人なのだが大丈夫かな…と思っていたら、早々に「ラフマニノフについて論じるのは、彼が著名であるがゆえに難しい」ときた。…やっぱりだ。

でも、そう書いた後で、「でもラフマニノフは本物だから」と必死に言い訳するメトネルの言葉を追いながら、本当にいい人なんだなと思う、これは心温まる文章なのである。

なんとかラフマニノフの面子を立て直した(と恐らく彼自身が満足した)あと、「作曲家の音楽そのものを理解するための鍵であるかのように、なぜ作曲家の伝記に頼るのか。」と、いまここで書こうとしていることなど一瞬で吹き飛びそうな一言を読者に浴びせかける。
(ここだけの話ですが、メトネル先生、あなたの伝記に日本語訳はないのです。)

この文章の最後の方に、メトネルはとても興味深いことを書いてくれていた。
それはラフマニノフの指揮者としての功績について書いているもので、チャイコフスキーの交響曲が、ロシアにおいてでさえもアルトゥール・ニキシュ(ドイツの名指揮者)もしくは彼の模倣者による演奏でしか聴けなかったと、まずメトネルは不満を述べる。

ニキシュの天才的な解釈を認めながらも、それがゆえにたちまち「盲目でへたくそな模倣者の、素人で自称の指揮者たち」の餌食になった、と当時でも下手をすれば裁判沙汰になるのではと心配になる勢いでさんざんに毒づいた後で、そこに登場したラフマニノフによる指揮棒の一振りよって「この模倣の伝統が曲の中から消え去って、私たちが再び、これをまるで初めて演奏される曲のように」聴いた時のことが忘れられないと、遠くを見つめるメトネルの眼差しには、やはり読むものを感動に導くものがある。

指揮者としてそのような特別な体験を聴衆に齎しながらも「いやまだ全くこうではない、違う……」と常に不満を漏らすラフマニノフを描き、『鐘』が町の生活から消えゆくいま、「この深く、圧倒的な音で、街頭のあらゆる不協和音を覆いつくす、その打つ音の一つ一つの価値をとりわけ大切に」という大団円で、この感動の文章は締めくくられる。

メトネルが1909年に作曲した曲集「おとぎ話」op.20には、「鐘」”Campanella”という小品が含まれていて、その副題が”Song or tale of the bell, but not about the bell” つまり「鐘の”歌”もしくは”おとぎ話”、だが鐘の音ではない」となっている。

1913年に初演されたラフマニノフの合唱付き交響曲「鐘」は、さまざまな鐘の物語を題材にしている。この作品の発端は、1907年にポーの作による鐘の詩をラフマニノフが入手したことであったらしい。

鐘の音の描写ではない鐘物語の世界観を、彼ら二人の作曲家が直接に共有していたかどうかはここでは重要ではないかもしれないが、二人の結びつきが運命的なものであったと様々な文献に書かれていることの、ひとつの象徴であるような気もしてくるのである。


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2021年7月1日(木) 20:00開演
「N.メトネル作品集」
ピアノ:秋元孝介
https://www.cafe-montage.com/prg/210701.html

イザイという響き

これまで、他の作曲家の伝記に登場している姿しか知らなかったウジェーヌ・イザイその人について、これまで一度も集中して調べたことがなかった。

イザイという名前は、旧約聖書を書いた一人とされる預言者の名前の連想からも、ヴァイオリン奏者として神格化されているその姿にとても似合っているように思っていた。しかし、イザイがパリで名を成すまでの足跡を追う中で、この名前がもうひとつ、19世紀末のパリにおいてある象徴的な響きをまとっていたのではないかと思い始めている。

ひとまず、イザイがパリの楽壇に登場するまでの、その足跡を辿っていこう。

1870年、まだ12歳のイザイはリエージュのある地下室でヴァイオリンの練習をしていた。その音が、道を通りがかった大ヴァイオリニストのアンリ・ヴュータンの耳に届いた。その音の主を確かめたヴュータンは、ブリュッセルに彼を呼び寄せ、自分のアシスタントを務めていたヴィエニャフスキに少年イザイの教育を任せることにした。

1875年2月、ロシアの大ピアニスト、大教授であり大作曲家のアントン・ルビンシュタインはかねてよりパリオペラ座に委嘱され、作曲の最終段階に入っていたオペラ「皇帝ネロ」の打ち合わせのためにパリを訪れ、そのついでにアンリ・ヴュータンが主催した夜会を訪れた。
そこには17歳になったウジェーヌ・イザイがいた。
ヴュータンとその一番弟子のヴィエニャフスキの薫陶を正面から受け止めていた彼の演奏を、アントン・ルビンシュタインはその時初めて聴いた。

それから6年以上の月日が経った。
結局「皇帝ネロ」はパリでは演奏されなかった。

1881年の5月、アントン・ルビンシュタインはベルリンにいた。そこで開催されている食事つきコンサートで、イザイがオーケストラのトップを弾いているのを見つけた。イザイの食事付きコンサートでのキャリアがすでに3年目になると聞いたアントン・ルビンシュタインは、イザイを翌1882年の自分の北欧とロシアのツアーに同伴させ、自分の観客にソリストとして紹介した。

翌1883年、イザイはチューリッヒでフランツ・リストに会った。そして、のちにベルリン・フィルハーモニー管弦楽団となるはずの、しかし、その時は食事付きコンサートのオーケストラの仕事をやめた。
翌1884年、パリに移り住んだイザイは「トリスタンとイゾルデ」のパリ初演 (第1幕のみ) に触れて、並々ならぬ感動をうけた。
1885年にサンサーンスの指揮のコンセール・コロンでサン・サーンスやラロの作品を演奏し、その評判は聴衆にも広く伝わっていった。
1886年、イザイの結婚式に合わせて、セザール・フランクのヴァイオリンソナタが書かれた。

イザイは「トリスタンとイゾルデ」を聴いて「バッハやベートーヴェンからでさえ、これほどのインパクトをうけたことはない」とまで言ってしまったらしいのだが、その詳細を知りたくて調べているうちに「トリスタンの息子イザイ」という文言に行き当たった。

「トリスタンとイゾルデ」”Tristan et Yseut”の物語には、中世に書かれた外伝がふたつある。
ひとつはトリスタンとイゾルデの親の世代の物語。
もうひとつは「悲しみのイザイ」”Ysaÿe le Triste”という題名で、トリスタンとイゾルデが死ぬ少し前に生まれた彼らの息子イザイの物語らしいのだ。

すでに失われた言語で書かれたそれら二つの外伝は、まだ英語にさえ翻訳が成されていないために、どのような話の内容であるかが朧気にしか伝わっていない。

トリスタンという名前。古いアイルランド語の「騒々しい=元気に泣く、子」というもともとの意味に、ラテン語の「悲しい」という響きが加わることで、その有名な物語に奥行きが与えられている。

イゾルデにも、もともとの名前の意味に加えて、もしかしたら”預言者”の響きを加えることが出来るということなのだろうか。
自分にはまだそこまでのことはわからない。

19世紀末に「トリスタン」とイザイは、ほぼ同時にパリに姿を現した。

ワーグナーの音楽がフランスにもたらしたもの。
イザイのヴァイオリンがフランスにもたらしたもの。
音楽のみならず、香りの段階にまで達したその大きさについて、自分はまだまだ想像がついていないのかもしれないと思った。

 

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ヴァイオリン:会田莉凡
https://www.cafe-montage.com/prg/210617.html

裏返されたハ短調

シューマンはハ短調を書かなかった。
滅多に書かなかった、という以上に、書かなかった。

ベートーヴェンの死から2年後に、未完成となったピアノ四重奏曲を書こうとしたあとは、ショパンの死の年である1849年に「ミニョンのレクイエム」、人生最後の数年間でミサ曲をそれぞれハ短調で書いた。
それ以外に目立った作品はない。

シューマンは交響曲の年である1841年に、ハ短調の交響曲を書こうとして、たったの2日であきらめたことがある。
最終的にシューマンは変ロ長調で「春」の交響曲を書いたのだが、この時期にベートーヴェンのハ短調を研究していたことが、翌1842年に作曲されたピアノ四重奏曲にもあらわれている。

そのピアノ四重奏曲はハ短調の裏返しである変ホ長調で書かれた。
そこにはベートーヴェンの二つのハ短調ソナタが登場する。
第1楽章にはベートーヴェンの悲愴ソナタとバッハのイタリア協奏曲の関係が透かし彫りで刻まれ、最終楽章は冒頭にベートーヴェンの最後のピアノソナタの第1楽章の第1主題が、やはり裏返しの形で登場しフーガを形成する。

 

ロマン派はハ短調を書かなかった。
滅多に書かなかった、という以上に、滅多に書かなかった。

メンデルスゾーンはベートーヴェンが生きているときにはまだハ短調の作品を書いていたが、それ以降は自らの死の前年のピアノ三重奏曲まで書かなかった。その同じ年に、シューマンは交響曲第2番の第3楽章をハ短調で書いている。

ショパンは練習曲集と前奏曲集の中でそれぞれ1曲ずつ、そして夜想曲 op.48-1をハ短調で書いた。
その夜想曲が作曲されたのは、先ほど書いたシューマンのハ短調の交響曲が2日間でとん挫したのと同じ1841年であった。

リストは超絶技巧練習曲集に1曲、そのほかには目立ったハ短調の作品はない。

時代の一つのうねり、そこで彼らが共有していた空気は、こうしてハ短調を軸にすることでも観察できる。
そのうねりはブラームスを直撃した。彼は最初の交響曲が完成するまで、何年にもわたってハ短調を書き続けた。

 

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2021年6月13日(日) 19:00開演
ヴァイオリン:上里はな子
ヴィオラ:前山杏
チェロ:上森祥平
ピアノ:岸本雅美

https://www.cafe-montage.com/prg/210613.html

待ち続ける、シューベルト

1817年、シューベルトは自由になった。
自由になると同時に、作曲しかやることがなくなった。
自由を手に、思い立ったようにシューベルトはピアノソナタをたくさん書きはじめて、そのうちの少なくとも4曲を完成させた。そのころ、ベートーヴェンは「ハンマークラヴィーア・ソナタ」に取り掛かっていた。

生涯の友、ヨゼフ・シュパウンとフランツ・ショーバーは、自由になったシューベルトを我が作曲家として、援助を惜しまないだけでなく、重要な創作のパートナーにもなった。

2月シューベルトが画期的な歌曲「死と乙女」を書くと、その翌月にシュパウンは「若者と死」の詩を、ショーバーは「楽に寄す」の詩を続けて書き、シューベルトはその2つの詩に寄せる音楽を瞬く間に書いた。
いずれもこの世ではないところに連れ去られる歌であり、二人はシューベルトの芸術との道連れを誓ったのであった。

1821年、シューベルトはオペラ作曲家となることを目指し「アルフォンソとエストレッラ」に取りかかった。ショーバーが台本を受け持ち、二人の共作体制が生まれた。
1822年、ショーバーと暮らしを共にしていたシューベルトは、「アルフォンソとエストレッラ」を書き上げた。このオペラがウィーンで上演される見込みはなかった。シューベルトは病に襲われた。
1823年、ショーバーは自ら役者となることを目指してブレスラウに旅立った。シューベルトの病はより深刻さを増した。

シュパウンもすでにシューベルトの傍にはいなかった。
シュパウンは「アルフォンソ」の年である1821年にウィーンを離れ、自身の故郷リンツに帰っていたのだった。
ショーバーはブレスラウで俳優業に専念し、時折その立場を利用してオペラ「アルフォンソとエストレッラ」を劇場に売り込もうとしていた。ドレスデン劇場にいた文豪ティークなどは興味を持ったらしいけれど、やはり上演は叶わなかった。
シューベルトは時々彼らに手紙を書いた。

1824年、なんとか体調を取り戻したシューベルトは、思い出深い「死と乙女」の前奏部分を使って、ひとつの弦楽四重奏曲を書き始めた。

翌1825年10月、ショーバーが2年ぶりにウィーンに戻ってきた。
年が明けて1826年、シューベルトは書き上げていた「死と乙女」の弦楽四重奏曲を取りだし、この作品は2月に初演を迎えた。
そして、4月にはシュパウンが5年ぶりにウィーンに戻ってくるという嬉しい知らせがあった。
こうして、かつての仲間たちとのシューベルティアーデが復活した。

その5月、問いと答えを永遠に繰り返すようなト長調の弦楽四重奏曲が、そして10月には、完全な自由と孤独を受け入れる宣言であるかのようなト長調のピアノソナタが書かれた。

シュパウンとショーバーと一緒であれば、そこがどのように名付けられた所だとしても、どこにでも行くことが出来る。
シューベルトの奇跡のような最後の2年が始まった。



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シューベルトの死から20年後の1848年、秘書としてフランツ・リストのもとにいたショーバーは、シューベルトの兄に手紙を書き、「アルフォンソとエストレッラ」をリストに宛てて送るようにといった。

1854年、リストの指揮によって「アルフォンソとエストレッラ」はワイマールの歌劇場で初演された。

 

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2021年5月27日(木) 19:30開演
F.シューベルト vol.19
ピアノ:佐藤卓史
https://www.cafe-montage.com/prg/210527.html

「私は非常に怒っている」

ヴィルヘルム・ヨーゼフ・フォン・ヴァシレフスキというのは、ライプツィヒでメンデルスゾーンやダヴィッド、そしてシューマンのもとで学んだヴァイオリニストで、シューマンが音楽監督としてデュッセルドルフに引っ越した際にコンサートマスターとして呼ばれ、シューマンの死まで傍にいたのち、最初のシューマン伝記となる本を書いた人である。
 
「あの作品を書いたときには、非常に怒っていた」と、シューマンはそのヴァシレフスキに言ったということなのである。
 
それは1951年の9月のこと、シューマンが何に怒っていたかの詳細は不明だ。シューマン晩年の傑作のひとつであるヴァイオリンソナタ 第1番はその「シューマンが絶え間なく癇癪を起していた時に」作曲されたとヴァシレフスキは伝記の中で伝えている。
 
1849年、革命の嵐が去った後、シューマンは疎開先からドレスデンに戻っていた。ワーグナーの逃亡によって空席となっていた歌劇場のポストも、もしくは盟友メンデルスゾーン死後のライプツィヒ・ゲヴァントハウスのポストも、自分には出番が回ってこなかった。ショパンが死に、追悼の式典を開催したいという申し出もドレスデン政府から却下され、シューマンには身を置く場所がどこにもなかった。
 
シューマンは革命には参加しなかったが、思想には共鳴していたというのが定説である。
ということは、同じくドレスデンにいたワーグナーとも共鳴していたことになるのかもしれないのだが、誰もそうはいわない。
そこには何の言葉もない。
 
1842年の4月、ようやく完成した歌劇「リエンツィ」をパリで上演するチャンスがなかなか来ない中で、ドレスデンでの上演が先に現実的になったのでに、ワーグナーは三年暮らしたパリを離れた。
ドレスデンに到着後、すぐにライプツィヒの生家を訪ね、その時にシューマンに会っている。その時シューマンは、演奏旅行でずっと留守だったクララが早く帰ってこないかと待っていたところだった。そこにワーグナーが来た。
シューマンは「過剰なアイデア。多弁極まりなく、とても長くは聞いていられない」と思いながら、しゃべり倒すワーグナーの前で「1時間、ずっと黙っていた」(ワーグナー談)らしいが、ワーグナーがドレスデンに帰ったあと、ほどなくして弦楽四重奏曲の作曲を皮切りに、シューマンの伝説的な「室内楽の年」がはじまった。
 
その3年後、シューマンはワーグナーのいるドレスデンに移り住んでいた。
そこで「トリスタンとイゾルデ」の話を始めたのはシューマンだった。
1849年の革命でワーグナーはドレスデンから逃げ、シューマンは疎開し、二人は離れ離れになった。
 
1850年、ドレスデンを離れてデュッセルドルフの指揮者としてようやく安定するかと思いきや、無愛想だという評判でやはり不安定を極めていたシューマンの地位と情緒であったが、まだカタストロフを迎えるまでには達していなかった。
 
若いころからの課題であるバッハの研究は、その頃にはバッハのヴァイオリンやチェロの無伴奏作品に及んでいて、シューマンは無伴奏作品にピアノ伴奏をつけて、未来の様式にとって必要なものを手に入れようとしていた。

1851年9月1日、リストがヴィトゲンシュタイン侯爵夫人と13歳のコジマを連れてシューマン家を訪ねてきた。マイペースなリストはクララと連弾をしたり、自分の作品を弾いて聴かせたりした。ロベルトは黙って聴いていた。
クララはいつものようにリストの芸術に驚嘆しながらも、そこから逃れようともがいていた。「彼は全ての人を永遠の興奮状態に追い込んでしまう。いつものように悪魔的な絢爛さでピアノを駆使している。彼の作品を聴いていると、気が滅入る…」と、日記に記している。
となりで聴いていたロベルト・シューマンはどうだっただろうか。
この時、もしかして、すでにリストが内輪ではよく演奏していたというピアノソナタ ロ短調の初稿を二人が聴かされた可能性だってあるのだが、詳細はわからない。
 
リストが去ってすぐ、やっぱり室内楽の年が再来した。
シューマンは癇癪を連発しながら、数日間でヴァイオリンソナタ 第1番を書き上げ、クララがヴァシレフスキと試演してみたもののまだ「演奏が仕上がらない」と言ってる横から、バッハ無伴奏作品の研究を昇華させ、シャコンヌと同じニ短調でヴァイオリンソナタ 第2番とピアノ三重奏曲をたて続けに書き上げ、「ああ、なんでこんなことを…」と絶句しながらまだ1曲も弾きこなせないヴァシレフスキにシューマンは、ようやく微笑みながら、「あの”はじめの”は気に入らないんだ」と告げたという。
 

シューマンは、何に激怒していたのだろうか。

ヴァイオリンソナタ 第1番は、憂いに満ちた、しかし決定的な
「熱狂の表情」で開始される。

“Mit leidenschaftlichem Ausdruck”

最後の熱狂、その幕が開いた。


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2021年4月16日(金) 19:00開演
「R.シューマン」
ヴァイオリン:上里はな子
ピアノ:島田彩乃

https://www.cafe-montage.com/prg/210416.html

そこに行くべきか それが問題だ

医療崩壊ということが叫ばれています。
それは確かに深刻な問題です。

それは患者が増えすぎることで、必要な医療を受けることが出来ない人が出てきてしまうということのようです。3月の初めの時点で広くその危機感が叫ばれ、私たちが協力することでなんとかしなければと行動にうつしてから、すでに1か月が経ちました。

いま、この問題をもう一段階、深刻に考えてみる必要があるということについて、お話をしたいと思います。

これはまだ誰にでも通じる話ではないかも知れませんが、医療崩壊は患者の激増によっても発生するし、患者の激減によっても発生します。 “そこに行くべきか それが問題だ” の続きを読む