ラヴェル、スカボロー・フェア

ドビュッシーはクローシュ-Croche氏というペンネームで評論を書いていたのだが、その活動の重要性を強調するルイ・ラロワに対して、「何も聞いていない人に向かって話して、それが何になるだろう」と書き送っていた。ラロワはのちにドビュッシーの評伝を初めて書いた人物である。

「言うべきことは確かにある。でも音楽が、隣人よりも声高に話す人々が作った小さな共和国のそれぞれに分かれている中で、誰に対してものを言えばいいのだろう。ベートーヴェンとラヴェルの間を行き来している人に!天才という、愚かでバカバカしい役回りを引き受ける人間はもういなくなった。」(10.Mar.1906 – Debussy to Laloy)

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夜のガスパール

「詩は翻訳できない」

フランス語の詩を日本語で読んでも仕方がないと言い、その困難の中にも詩を探し当てなければいけないと言う。

ベルトランの詩ではなく、散文を抜き出してみた。

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芸術を探し求めたことのある者を詩人というならば。
芸術というものが幻想でさえなければ。
幻想‥ 私もまた芸術を求めた!

芸術は常に対照的な二つの面を持っている。
片面はレンブラントの、もう片面はジャック・カローの風貌を伝える、一枚のメダルのようなものである。レンブラントとカロー風の幻想曲以外にも、ここには、様々な巨匠たちのエチュードが描かれている。

私は自然の中に、まだ芸術に欠けているものを見出せると信じた。
そこで自然を‥自然の光景を研究した。
次いで人間の事跡を研究した。
神と愛とが芸術の中にある「感情」であるならば―
悪魔こそ、芸術の中にある≪思想≫ではあるまいか?

夜のガスパールは、他のところにいないとすれば、地獄にいる。
夜のガスパールとは‥悪魔だ。私は彼の本を出版しよう。

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2016年3月28日(月)20:00開演
「夜のガスパール」
ピアノ: 奈良田朋子
http://www.cafe-montage.com/prg/160328.html