モーツァルト – Episode 3

episode 3

自らの芸術の成熟を実感しながら、大いなる野望を持って行われた最後の旅は終わった。
家族とかつての友人たちは
モーツァルトの「パリからの」帰りを喜んで走り回った。モーツァルトはどのような顔をしてこの歓喜の輪の中に入ったのだろうか。

1779年
モーツァルトは故郷ザルツブルグで宮廷オルガニストの職に就き、2台のピアノのための協奏曲と協奏交響曲という2曲の変ホ長調の傑作を生みだし、翌1780年、選帝侯の以来でミュンヘンに赴き、歌劇「イドメネオ」を作曲した。その間に、ウィーンではマリア・テレジアが死んでいた。

1781年1月末
ミュンヘンで「イドメネオ」の初演が行われた。2月中にはザルツブルクに戻ってなければいけないところが、モーツァルトは3月に入ってもまだミュンヘンにいた。その時、ウィーンに滞在していたザルツブルグの大司教は、モーツァルトをウィーンに直接呼びつけた。

1781年3月16日
モーツァルトはウィーンに到着した。マリア・テレジア亡き後、宮廷において様々な権力の移動が行われる中で、ザルツブルグの大司教はお抱えの音楽家を手元に置いておくことで何かが有利に働くと思ったのかどうか。大司教の目論見をよそに、モーツァルトは大都会ウィーンに魅せられていた。

モーツァルトはウィーンに滞在することを決断した。ザルツブルグ大司教を怒らせて「出て行け」という一言を頂戴し、それを利用して職を解いてもらうことに成功した。時代は急激に変わりつつあった。

アウエルンハンマーソナタ
完全にフリーの音楽家としてウィーンでの生活をスタートしたモーツァルトが早速採用した弟子の中に、アウエルンハンマー嬢という実業家の娘がいた。彼女に献呈されたヴァイオリンソナタ集は、モーツァルトが完全に独立した魂を獲得した最初の記録として残されてい
る。
ここでモーツァルトは、10年後にウィーンにやってくるベートーヴェンを予告し、そのさらに先のビーダ―マイヤー期、つまりシューベルトからシューマンまでをも見通している…
つまり、すべてモーツァルトが生み出したものなのだ。

1781年9月5日
「親愛なる父上。私が極悪人か愚か者、もしくはその両方であるかのように書く、他人の言うことを信用して、私のことを全く信用なさらないのを知って残念です。でも、私はまったく平気です。書きたい人は好きなことを書けば良いし、あなたはお好きなように彼らに賛成なさればよろしい。」

episode 4につづく

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’17年6月27日(火)20時開演
「W.A.Mozart」― episode3 -Wien1781
ヴァイオリン:上里はな子
ピアノ:松本和将
http://www.cafe-montage.com/prg/170627.html