クープランに、墓はない。

ラヴェルが中心となって設立した独立音楽協会は、1910年4月20日に第1回となる音楽会を開催し、ロジェ=デュカス、カプレ、ドビュッシー、ドラージュ、コダーイの作曲が演奏されたほか、ラヴェルのピアノ組曲『マ・メール・ロワ』とフォーレの歌曲集『イヴの歌』の全曲初演が行われた。

『ガスパールの夜』とほぼ同時期に書かれた、ペローの童話集のための『眠れる美女のパヴァーヌ』を押し広げた4手連弾のピアノ曲集『マ・メール・ロワ』は、同じ年にピアノ独奏版がラヴェルの友人で出版社デュランの従弟でもある、ジャック・シャルロによって初演された。

独立音楽協会の華々しい立ち上げに成功したラヴェルは、ディアギレフから委嘱されていたバレエの新作、『ダフニスとクロエ』のピアノ版を翌5月には完成させ、自信に満ちた表情でオーケストレーションに取り掛かっていた、その時、パリに激震が走った。1910年6月25日『火の鳥』がピエルネの指揮で初演されたのである。

1910年6月25日、『火の鳥』の初演を聴いたラヴェルはその日に弟子のドラージュに向けて書いた。「古い長靴を今すぐに脱がなければいけない。あれはリムスキーなどよりもっと先に行ってしまっている。君も早く戻って、『火の鳥』のところに来るべきだ。しかし、何というオーケストレーションだろう…!」

ストラヴィンスキー登場の衝撃は、瞬く間にパリ中を駆け巡り、その年のうちにはオーケストレーションを完成させて初演するはずであったラヴェルの『ダフニスとクロエ』の計画も大きな変更を余儀なくされた。ここからラヴェルの苦悩の時代が始まることになる。

ラヴェルは必ずセンセーションを引き起こすと信じていた『ダフニス』の完成を急いでいた。しかし、プランの大幅な変更という、ラヴェルとしては初めての事態にあたって作曲作業は捗らなかった。彼はひとまず、元のプランで完成していた部分だけをまとめて『火の鳥』の指揮者ピエルネに託した。

ドビュッシーをして「彼に任せれば、それだけで作品の価値は保障される」と言わしめた巨匠ピエルネに、ラヴェルは「作曲家である私の責任が重大なのは当然です。でも、普通の指揮者ではあの作品は多くの箇所で効果を発揮できず、バカバカしい結果に終わるかも知れません。だから貴方でなければでは駄目なのです!」と書き送っていた。

1911年4月2日、『第1組曲』は初演された。「ラヴェル…現代の音楽の大事な部分を担うと思われるあの作品を書いたあの子供については前から知っていて、常に興味を持ってきた。でも、私は恥じなければならない。彼が私からあれほどまでに影響されているとは…。それをあれほどまでに公にするとは!」とサティは書き残した。

ところで、ドビュッシーにシェーンベルクの音楽を最初に見せたのがエドガー・ヴァレーズであったというのは本当の事だろうか。1905年、ヴァレーズは本人曰く「フォーレに音楽院を追い出されて」ベルリンに向かい、そこでブゾーニとリヒャルト・シュトラウスの薫陶を受けた。

パリとベルリンを往復していたヴァレーズが、ドビュッシーに見せたのはシェーンベルクの作品11と作品16、いずれも1909年に出版された作品だ。しかしその前年12月にラヴェルはこう書いているのだ。「ヴァレーズ氏の訪問が無ければ、夜には家にいたはずだった…ヴァレーズ氏は別の日にまた皆で会いたいという…」

ラヴェルがシェーンベルクの作品に興味を示したのが、いつの事であったかは定かでない。彼が指揮者コロンからの管弦楽曲の依頼を受けてウィーンのワルツをテーマにした作品に取り掛かると書いたのは1906年の事だった。彼がそれにいつ着手したかは不明であるが、それは5年後にピアノソロ作品として発表された。

『第1組曲』初演の翌5月8日、設立から1年を経過した独立音楽協会で催された「作曲家当て」演奏会で、ラヴェルの『高雅で感傷的なワルツ』の初演が行われ、クイズ形式の演奏会は大いに盛り上がった。ピアノを担当したのは懸案の『ダフニス』のオーケストレーションを手伝っていたルイ・オベールであった。

ラヴェルなりのウィーンへのオマージュを綴った作品が世に出た頃、彼はすでに『ダフニス』の未完成部分の作曲をあきらめて、ルイ・オベールに託そうかとまで思いつめていた。ルイ・オベールはラヴェルのこの頼みを断ったことを「誇りに思う」と生涯の自慢にしていた。

『高雅で感傷的なワルツ』初演の翌月、さらなる衝撃がパリを席巻した。1911年6月13日、『ペトルーシュカ』が初演を迎えたのである。ラヴェルにとっては何もかもが手遅れになってしまった。2か月後の8月5日、「ダフニスは完成した!」と一度は言ったものの、翌年1月2日には「ダフニスはまだ出来ていない」と嘆いている。

すでにその目的を失いつつあった『ダフニスとクロエ』を、ラヴェルが元のプランのままでもっと早く発表していれば、世界の形は今の姿と違っていたかもしれない。1910年、「火の鳥」以前に完成していたピアノ版の中に、ラヴェルの底の知れない絶望が見えるように思う。彼は悲劇の作曲家であった。

 

ところで、例の「作曲家当て」演奏会ではアンゲルブレシュトとビュセールのほか、ラヴェルの他は余り有名でない(当時は誰でも知っていた?)作曲家の作品が演奏されていた。三択とかでない限り、当てるの無理!ではあるけれど、誰も聴いたことのない作品を多くの人と一緒にあれこれ思案しながら聴くのは楽しいかも知れない。

さらに面白いのは「作曲家当て」の中にクープランの作品が紛れ込んでいたらしいということだ。例えば、ブラームスやフォーレのピアノ小品のあと、そのままピアノで演奏されるラモーの作品を聴くと、頭はバロックの方向に向かず、むしろ1980年以降の音楽を模索し始める。そんな経験がないだろうか。

 


そして、例えば「作曲家当て」演奏会でラヴェルの『高雅で感傷的なワルツ』と共に演奏されたのが、クープランの『神秘的なバリケード』だったと想像してみる。ラヴェルの作品を聴いてサティやコダーイだと定義した頭は、次にどこに向かうのだろう!

 

フランスにしかあり得ない音楽。
フランソワ・クープランの偉大な業績を形容する言葉を私は持たないけれど、先ほどの『神秘的なバリケード』を含むクラヴサン曲集第2巻のちょうど5年後に出版された、バッハの前奏曲(クープランと同じく変ロ長調)を聴いて、クープランの影響が早い段階で広い地域に及んでいたことを想像するのは、本当に楽しい。

 

フランソワ・クープランは1733年9月11日に死んだ。
彼の遺体は、彼が長くオルガニストを務めた聖ジェルヴェ教会に埋葬されると思ったら、なぜか関係のない聖ヨゼフ教会の墓地に埋められた。フランス革命のさなか、1796年にその墓地は廃止され、1800年には聖ヨゼフ教会そのものが消滅した。その遺骨は散逸したか、カタコンブに紛れているのか…ハイドンの頭蓋骨のような仰々しい発見騒ぎさえ一度もなかった。だから、フランソワ・クープランの墓は、今も存在しない。

1912年6月8日、ラヴェルの『ダフニスとクロエ』はバレエ初演を迎えた。2回しかなかったその公演を聴いた人からは絶賛の声が上がったが、世間的には同時期に上演されたニジンスキー振付けによる『牧神の午後のための前奏曲』の話題が圧倒していた。その5か月後、ラヴェルはストラヴィンスキーから1通の手紙を受け取った。

「ベルリンから戻ってきたよ。ペトルーシュカのワルツが『本物のバレエ音楽』として深刻に受け取られているあの退屈な街では、ムソルグスキーやボロディンを聴くことはできなかった。でも、ひとつだけ心を打ちぬかれた出来事があった。ユダヤ人街の市場にあるホールでシェーンベルクの作品を演奏したんだ。その作品『ピエロ・リュネール』は…」
(1912年11月14日 ストラヴィンスキーからラヴェルへの書簡)

翌年5月29日、ストラヴィンスキーの『春の祭典』が初演された。
阿鼻叫喚のパリの中でラヴェルは一人懐古的な時間を過ごし、自身の制作に一つの区切りを付けようとしていた。それは彼個人の感傷でもあったし、また滅びゆく時代の求めたことでもあった。

『ボロディン風』と『シャブリエ風』、そしてシェーンベルクの『ピエロ』を巡って『マラルメの3つの歌』を作曲した。この作品と翌年の『ピアノ三重奏曲』はローマ賞事件から『ダフニス』までの、ラヴェルの一つの奇跡的な創作期の最後を飾った。

フランスの第一次大戦参戦と同時期に『ピアノ三重奏』を書き上げたラヴェルは、全く新たな気持ちで一つのピアノ曲を書き始めた。1914年10月にはまだ『フランスの組曲』としていたリゴードン、メヌエットそしてトッカータという舞曲楽章を含むそのピアノ作品は、翌年1月には『クープランの墓』という題名で呼ばれるようになっていた。

その2か月後、ラヴェルは戦地に向かった。そこから第一次大戦を巡っての出来事をどのように描写すればよいのだろう。

1871年、普仏戦争の末にパリ郊外のヴェルサイユ宮殿で行われた建国の儀。その時に誕生したドイツ帝国の経済の重要な部分を作り上げたのが、嘗てフランスでの迫害から逃れたユグノー教徒たちであった。そのドイツ帝国の誕生を受けてフランス国民音楽協会が成立。ドイツ皇帝ヴィルヘルムの宰相ビスマルクが死に、ロシアとドイツの関係の均衡が崩れた矢先の露仏同盟、新たな緊張関係からドイツ帝国の孤立が深まり、ドイツ軍のフランス侵攻の手本となったシェリーフェン・プランが成立。

「現代的な音楽の創造」をモットーにラヴェルが独立音楽協会を設立したころには、欧州で大規模な戦争が起こるであろうことは、誰もが認めるところであったという。

「誰も聴いたことのない響き」を求めて、時代の申し子として走り続けていたラヴェルは、第一次大戦開戦と共に立ち止まった。
そして『クープランの墓』を次の為すべき仕事として定めた、そのあとすぐ、戦地に赴いて走り始めた。

クープランはどこにいるのだろう?

嘗て『マ・メール・ロワ』のピアノ独奏版を初演したジャック・シャルロは、第一次大戦で中尉となってすぐに死んだ。
ドビュッシーは彼に『白と黒』の「フランスの敵に対するバラード」の楽章を彼に捧げた。
ラヴェルは『クープランの墓』の第1曲を彼に捧げた。


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’19年10月3日(木) 20:00開演
「M.ラヴェル」 – 1911-1917
ピアノ: 松本和将

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