モーツァルト追悼 失われた遺作

ホムンクルス:
このやさしい水の中では、何を照らし出そうとも、何から何までが実に魅力がある。

タレス:
…あれは、プロメテウスにおびき出されたホムンクルス…やむにやまれぬ憧れを示す兆候なのです。あ、燃え上がった。光って、ああ、もう溶け始めた…。

ヘレナ:
…私はひどく遠方にいるような、またひどく近くにいるような気がしますけれど、それでも「ここにいます、ここに」といわずにはいられません。…一生が終わってしまったような、けれどもこれから始まるような気がします。

ファウスト:
…運命を黙ってうけていましょう。「在る」ということは義務です。よしそれが瞬時の事であろうとも。

・・・・


明日、12月5日はモーツァルトの命日。
かねてから書きたい、書かなければいけない…とずっと思っていたことをようやく書きます。
でも、よほどのモーツァルト好きにしか読んでもらえないに決まってる!と思われる内容に終始します。ごめんなさい。


1777年にモーツァルトが作曲したフルート四重奏曲で、はっきりと現存する作品はニ長調 K285 (第1番) のひとつだけである。しかし、モーツァルトが父に宛てた手紙の中で四重奏が「3曲」だと言っているので、他に2曲あるはず…ある!とされたのが、ト長調 K285a (第2番) そして ハ長調 K285b (第3番)の2曲なのである。

そして、第4番は自筆譜にモーゼルという作曲家・研究家による思われる筆跡で”1778年の作、ジャカン男爵のため”と書かれていることから、K298というパリ時代の番号をあてられたが、その楽想から1786年頃の作曲であることが認められている。
(ちなみにジャカン家のフランチスカ嬢にモーツァルトがケーゲルシュタット K498を捧げたのも1786年のことである)

モーツァルトのフルート四重奏曲 第1番だけが1777年に書かれ、第2番から第4番までの3曲が「フィガロの結婚」の年つまり1786年頃に書かれたものである…ということは、いまだ解説に書かれることがない。モーツァルトと言えばまずケッヘル番号順に並べて置けば混乱が少ない、という以上の理由があるのであれば教えて欲しい。

まずモーツァルトの4つのフルート四重奏曲について、今ここにあるだけの情報を整理して並べておきたい。

・・・・

 

モーツァルトのフルート四重奏曲 全4曲とは ケッヘル番号順に

K285  (第1番 ニ長調)
K285a(第2番 ト長調)
K285b(第3番 ハ長調)
K298  (第4番 イ長調)

以上のことである。

 

― 出版について

1.全4曲のうち、はじめて世に出たのは第3番 K285b (全2楽章)。
1788年、ボスラーによる出版。

2.次に世に出たのは 第1番 K285の第1楽章に、第2番の全2楽章 K285aが付け加えられた新しい四重奏曲(全3楽章)。
1792年、アルタリア社による出版。

3.次に世に出たのは 第4番 K298 (全3楽章)。
1808年、トレーク社による出版。

4.いつ世に出たのが分からないのが第1番 K285 (全3楽章)。
・依頼主であるド・ジャンが出版していれば1777年頃。
・ニッセンから自筆譜を買い取ったアンドレ社が他の弦楽四重奏曲と一緒に出版していれば1800年頃。
・1860年にケッヘルが自筆譜(1777)と共に参照している出版譜はアルタリア社とペータース社による版で、いずれも第2楽章と第3楽章がト長調(第2番)のK285a。(ややこしい!)
・以上のことから、おそらく1870年代のブライトコップフ社による全集版が初出。

5. 自筆譜が見つかっているのは第1番 K285と 第4番 K298の四重奏曲がそれぞれ全曲と第3番 K285bの一部のみ。



― 作曲の時期について

K285  (第1番 ニ長調) – 1777年 (確定)
K285b(第3番 ハ長調) – 1786年 (自筆譜から推定)
K298  (第4番 イ長調) – 1786年 (自筆譜から推定)
K285a(第2番 ト長調) –  op.posth(資料はアルタリア社の印刷譜 no.389, 1792年のみ)

、以上情報コーナー終わり

・・・

1785年、モーツァルトはウィーンを訪ねてきた父と最後の時間を過ごした。
ザルツブルグに帰った父は人生の最後を覚悟し、翌1786年にかけて、以前から預かって保管していた息子モーツァルトの自筆譜をウィーンに送り始めた。

翌1787年、モーツァルトが父の死と同時に書き上げた弦楽五重奏曲は、父から送られてきたであろう自身のフルート四重奏曲を追悼の音楽として書きかえたものであった。
1786年に3曲の新しいフルート四重奏曲の作曲が固まっていることについては、ここに至る流れの中で考えるべきではないかというのが、今書いていることの本旨である。


まず、K285bについて、1788年に出版された譜面しかないにも関わらず、強引に1777年にK285と同じ時期に作られた作品とされたが、その旋律がモーツァルトが1781年に作曲したセレナーデと同一で、しかも1782年の「後宮からの逃走」の自筆譜の中に、それより新しいインクで書かれたモーツァルトのスケッチが発見されてから、以下のような素直でない意見がいう人が出てきた。

「この作品 K285bが1777年に作曲されたものではないことは確からしい。しかし、そう思われたのにも無理はなくて、おそらくこの作品はモーツァルトのスケッチを誰かが勝手に作曲したのであろうか。わざわざ作品目録から除外するまでもないので、171という補遺番号を付け足してそのままにしておく。」…何の根拠もなしに、なぜそんなことをいうのだろう。

まずここで書いておかなければいけないのは、このK285b – Anh. 171という不幸な番号を付けられたフルート四重奏曲を1788年に出版したのが、他ならぬハインリヒ・ボスラーであったという事である。

ハインリヒ・ボスラーについては、モーツァルトとベートーヴェンの出会いを演出したのが彼ではないかということを、ブログに書いたことがある。モーツァルトにとって、ボスラーは単なる出版社以上の存在であった。

ハインリヒ・ボスラーは1744年生まれ。初めは銅版画職人そして宮殿の貨幣彫刻師として仕え、印刷業を始めて「ドイツ音楽通信」という雑誌を発行するようになった。この雑誌はいまでもオンラインで読むことが出来、当時のドイツ・オーストリアの音楽界の状況を今に伝える第一級のドキュメントなのである。

ボスラーは1776年からダルムシュタットのルードヴィヒ王子の側近秘書をつとめ、王子のフリーメイソン・ロッジ「至誠同盟」においては3番目の高い位置についていた。1784年、そのボスラーがフリーメイソンに入会したてのモーツァルトを尋ねて肖像の影絵を作製している。



フリーメイソンの中だけの関係であれば、まったく地位が違うこの二人の関係について掘り下げるには、まだ資料が足りないようである。ともあれ、ボスラーはこれ以降のモーツァルトの新作の出版社としても重要な役割を演じるようになる。

そして、もうひとつ強調しておきたいのは、彼がモーツァルトの伝記を書いた最初の人物であったことである。その伝記は死後1か月も経たない1792年の1月に「ドイツ音楽通信」で感動的な追悼文と共に発表され、簡潔ではあるけれど、今現在知られているモーツァルト伝記と遜色ない内容を誇っている。ボスラーはモーツァルトの生涯について本人、そしておそらくは父レオポルトからも話を聞いていた、まさに天才の証人といえる重要人物であった。

そんな偉人ハインリヒ・ボスラーが、モーツァルトの生前に、彼の書きかけのスケッチを拝借してでっちあげて出版するなどという事をするだろうか。モーツァルト研究にとどまらず、ハイドンも含めたウィーンの音楽事情を知るのに、ボスラーの存在なくしては語ることが出来ないという恩義は、そういう時にどこに向くのだろう。

「1788年のフルート四重奏曲は正当な新作初版である。」
何か新しい文献が出てくるまでは、そう言わせて欲しい。

・・・

そして、もうひとつ。モーツァルトの死後まもない1792年にアルタリア社から、以下の形で出版されたフルート四重奏曲のことである。

第1楽章 Allegro (第1番K285の第1楽章 ニ長調)
第2楽章 Andante(第2番K285aの第1楽章 ト長調)
第3楽章 Tempo di Menuetto(第2番K285aの第2楽章 ト長調)

モーツァルトの未亡人がアンドレ社という出版社に売った自筆譜がケッヘルによって参照される1850年頃まで、モーツァルトのフルート四重奏曲 第1番と言えば、まずこのアルタリア版のことを指していたに違いない。

改めてケッヘルの目録(1862年出版)を読んでみると、参考文献としてアンドレ社所有の自筆譜(1777)に加えて、アルタリア社(1792)とペータース社(1820以降)の出版譜をあげている。そして、アルタリア社とペータース社の楽譜について、第1楽章だけが自筆譜(1777)と合致し、第2楽章と第3楽章が自筆譜とは全く違うト長調の音楽となっており、モーツァルトの作品様式としては”fremd”であると書いている。

 

F R E M D ..  ! ! !
なんということだろう。
このト長調の楽章の中に、モーツァルトの有名なニ短調協奏曲 K466(1785)の第2楽章”Romanze”やコンサートアリア”Ch’io mi scordi di te?” K505(1786)に繋がる世界を見てしまってはいけないだろうか…。
いや、多分それはいいのだろう。ただ、ニ長調の第1楽章にト長調の第2楽章&第3楽章が組み合わされているのが、モーツァルトの様式としては”fremd”であると、ケッヘルは文章はそう読むことが出来る。

でも、なんということだろう。
モーツァルト全集では、このト長調の第2楽章と第3楽章は、第2番 K285aの第1楽章と第2楽章として、またしても1777年の作曲として掲載されてしまった。

アルタリアの出版社としての地位と、フリーメイソンとしてのモーツァルトとのさらに深い繋がりについて、ここで長々と書くことはしない。この出版社以上に重要な存在がいくつあるかと、問うだけでもアルタリアの名誉に関わってくると思うから。

「同志よ、モーツァルトの夭折は芸術にとって代えがたき損失である」
モーツァルトの死後、すぐにウィーンのフリーメイソン支部は追悼文を著した。

1791年、いわゆるプロシャ王四重奏曲が、モーツァルトの生前にアルタリアから出版された最後であった。翌1792年、アルタリア社が出版した作品の概要は以下の図のとおりである。

目録のほとんどを占めるモーツァルトの作品群の、なんという壮麗荘厳であろうか。
ここに深いアルタリアのモーツァルト追悼の意を読むのは間違ったことなのだろうか。その中で遺作として出版されたフルート四重奏曲を、なぜ解体して、忘れてしまわなければいけなかったのだろうか。

いや、私たちは忘れていない。
明日のモーツァルト命日、私たちはその音楽を、そのままで聴く。
第1番ニ長調 k285の第1楽章は、初めと最後の計2回演奏されることになる、アルタリアが残してくれたモーツァルトの肉声をそのままに聴きたい。

 

“Ch’io mi scordi di te?” ― どうして、忘れることができるでしょうか?


・・・・・

19年12月5日(木) 20:00開演
「W.A.モーツァルト」
フルート: 瀬尾和紀
ヴァイオリン: 瀬﨑明日香
ヴィオラ: 小峰航一
チェロ: 上森祥平
https://www.cafe-montage.com/symphony/191205.html