ダンテを読めない

「ダンテを読んで」と書こうと思ったが、読めなかった。

そもそも「ダンテを読んだ」ことのある人とは、誰のことだろうか。
バッハどころではなく長く忘れられていたダンテの『神曲』を19世紀の初めに読んだ人の代表はスタンダールとのことだ。
そのスタンダールにしても、ダンテのテキストそのものを読んだのか、ダンテについて書かれたものを読んだのかということが、なかなかはっきりしないらしい。
1803年、まだ20歳だったスタンダールは地獄篇の有名な「ウゴリーノ」のエピソードを自分で翻訳したいと思ったらしいが、リヴァロルによる地獄篇のフランス語訳を初めて読んだのがその時期という事で、そのフランス語訳の「ウゴリーノ」の人喰い描写が不十分だったせいなのか(そんな描写はないはずなのだが)、詳細はよくわからない。
ともかく、19世紀のロマン派文学がそう意識することによって、ようやくダンテはヨーロッパ文学における古典の位置を獲得することになったとのことで、それでもほとんど「地獄」しか読まれていなかったらしいということが方々に書かれている。
その中でも19世紀フランスの大評論家サント=ブーヴは、1830年代にして「地獄」以外のダンテ知識が豊富であったとのことだけれど、それとてダンテ全文をそのまま「読んだ」ことがあったのかどうかといえば、やはり確かではないらしい。

そこで、フランツ・リストである。
リストも1830年代にはダンテを題材とした音楽を書こうとしていたということでは、当時の最先端の文学者に並ぶといっていいのだろう。
そのリストが1849年にようやく完成させた作品の題名に、ヴィクトル・ユーゴーの詩の題名である「ダンテを読んで」を採用したのはどういうわけだったのか。

19世紀フランス文学の巨匠ヴィクトル・ユーゴーはゲーテ顔負けの早熟で、18歳ですでに自分の詩の雑誌を創刊するなど、若くして天才の名をほしいままにしていたにもかかわらず、幼馴染のアデールとなかなか結婚させてもらえずに国王から年金をもらう身分になって初めて許された、といってもそのとき(1822年) ユーゴーはまだ20歳だった。
1825年に23歳でシェバリエに勲されるなど文壇のスターとして活躍していたユーゴーは、1827年に自分の『オードと雑詠集』の評論を書いた2歳年下の才人サント=ブーヴと知り合い意気投合したが、なんと幼馴染妻のアデールがサント=ブーヴと恋に落ちてしまった。

サント=ブーヴは1834年に書いた小説 “Volupté”(愛欲)の中で、アデールとの関係を描写したとのことだが、その中で時代に先立ってダンテについて言及した部分がある。

地獄の中に、それは煉獄の斜面の底あたりなのかも知れないが、知られざる平地が存在する。そこはダンテも、彼を導いた聖人でさえも、足を踏み入れたことがない。3つの象牙の塔が、それぞれ徒歩で一日半ほどの距離を離れた場所に立ち、悔い改めた旅人がその間を行き来している。しかし、彼が一つの塔に近づくころには日が暮れ、塔の扉も閉じてしまう。だから、彼はずっとその間を行き来している、ああ、彼自身をさえ忘れてしまって!

―サント=ブーヴ "Volupté" 第18章 (1834)

その2年後、つまり1836年にユーゴーは「ダンテを読んで」を書いた。

詩人が地獄を描くのであれば、それは人生そのものであろう。
神秘的な森
彼女は手探りで荒れ果てた道を降りていく
どちらかと決めかねた霧の中で、その斜面は失われた
そこには原告が座っている
白い歯がきしむ、低い音が聞こえる
愛 絡み合う二人
悲しさ 常に燃え盛る…

― ユーゴー "Après une lecture de Dante" (1836)より 抄訳

フランツ・リストがピアノのヴィルトゥオーゾの世界を後にして、作曲家としての活動を本格化させた時期、それは1847年にヴィトゲンシュタイン侯爵夫人と出会い、人生を共にすることになった時期と重なる。
侯爵夫人の離婚が叶わない中でリストが見出した新しい生活と、1849年に「ダンテを読んで」と題したその作品との関係については、何も書けることはない。
リストは天国の音楽を書くことは出来ないと言い、しかしダンテの幼馴染であり、夭折したために永遠のマドンナとなったベアトリーチェの情景をこのソナタ風幻想曲の中に描いたということだ。

・・・・・

2022年7月20日(水) 20:00開演
「F.リスト」
ピアノ:松本和将

https://www.cafe-montage.com/prg/220720.html