悲愴ソナタ バガテルする晩年

ブラウン男爵が、ベートーヴェンの前に立ちはだかっていた。

ブラウン男爵は絹産業で財を成し、オーストリア随一の富豪として宮廷で重宝され、1794年にブルク劇場とケルントナートーア劇場の支配人となったあと、宮廷銀行の一員にもなっていた。

ブラウン男爵にはジョゼフィーネという奥さんがいた。
ブラウン男爵は奥さんがピアノが上手なのを自慢にしていた。
ベートーヴェンは、その奥さんに作品を献呈することで、何か便宜が図られるものと思っていたらしい。1799年、ベートーヴェンはブラウン男爵の奥さんに2つのピアノソナタ op.14を捧げた。しかし、ブラウン男爵は簡単には懐柔されなかった。

1800年のブルク劇場でのデビュー演奏会の大成功の後で徐々に作曲を進め、翌年にブラン男爵の奥さんにホルンソナタ op.17を献呈し、翌1802年、だんだんに耳が悪くなっていく中で、ようやく完成させた交響曲第2番を4月に初演したいと申請したが、ブラウン男爵は劇場の使用を許さなかった。

“悲愴ソナタ バガテルする晩年” の続きを読む

ウィーンのブラームス チェロソナタ 第1番

ノッテボームというのは大変に偉い人で、ライプツィヒで学んでいたころメンデルスゾーンから見せてもらったベートーヴェンのスケッチ帳に魅了されて、ウィーンに引っ越しをして、まだ誰も手を付けていないベートーヴェンの自筆譜の研究に没頭した。

ベートーヴェンの作曲の過程については、弟子たちがなんとなく語った逸話よりほかに確かなものはなく、アメリカ人のセイヤーが初めての本格的な自伝を執筆していた時期、ノッテボームが始めた研究は今日の自筆譜研究の先駆となるものだった。

ノッテボームはサラミが好きで、いつも決まったお肉屋さんでサラミを切ってもらっていたのだが、ある日、お肉屋さんが渡してくれたサラミの包み紙に何か落書きがしてあるのに気がついた。よく見るとそれは五線譜に書かれた楽譜で、さらに目を凝らすと、どうやらそれはベートーヴェンの筆跡であると気が付いた。でもそれは、これまでに見たことのない作品であった。

ベートーヴェンの知られざる手稿譜の発見…!

ノッテボームは動揺を必死で隠してお肉屋さんを出て、まっさきに友人のもとへ走った。友人は震えるノッテボームが差し出したサラミの包み紙を見て、大笑いした。

ノッテボームから見せてもらったベートーヴェンの手稿譜の書き方をまねて、ベートーヴェン風の一節を五線譜に書き、ノッテボーム行きつけのお肉屋さんに「今度彼が来たらこれを使うように」と渡しておいたのだ、とその友人、ヨハネス・ブラームスは笑いながら白状した。

そのベートーヴェン風のブラームスの手稿譜はそれこそ大変な貴重品だけれど、ブラームスにはそれをプレゼントするだけの恩義をノッテボームから受けていた。

1862年、ウィーンを訪れたブラームスは、そのあとハンブルクに戻ってフィルハーモニーの合唱指揮の仕事に就くはずだったが、フィルハーモニーからその仕事は歌手のシュトックハウゼンに依頼するという知らせが来た。
ブラームスは腹を立てて、もうハンブルクには帰らないと決め、ウィーンに定住することになった。ウィーンでブラームスはノッテボームに出会い、瞬く間に彼らは親友になった。

ブラームスはクララ・シューマンから任されていた、ロベルト・シューマンの遺産を整理する中で見つけた数々の貴重な資料をノッテボームに提供し、ノッテボームは彼のベートーヴェンの研究を始め、貴重なバロック音楽の資料をブラームスに開陳した。ブラームスは見るもの全てを手書きで書き写した。

ブラームスがウィーンに移り住んだ初めに作曲したチェロソナタ 第1番がヘンデルの作風を手本の一つにしていることは、その前の年にピアノのための『ヘンデル変奏曲』を書いていたことにも恐らく関係していて、ブラームスは当時ヘンデル全集を刊行していたドイツ・ヘンデル協会の中心人物フリードリヒ・クリザンダーとも親しい友人であった。

ウィーンに住むことに決めたブラームスは、ひとまずウィーンのジングアカデミーの指揮者の職を得た。チェロソナタ 第1番はその仕事のお世話をしてくれた、ヨーゼフ・ゲンズバッハーに献呈することにした。

ゲンズバッハーは合唱の教育者として定評があったが、同時に優れたチェリストであった。ブラームスがチェロソナタを手に現われたところ、ゲンズバッハーは当然のごとくに「一緒に弾きたい」と言い始めた。

「僕の音が聴こえない」とゲンズバッハーはピアノを弾くブラームスに言った。ブラームスは「それは幸運なことで」と言って、さらに音量を上げた。

ゲンズバッハーとブラームスの友情はその後も長く続き、ゲンズバッハーのつてでブラームスはシューベルトの未発表作品をたくさん見せてもらった。ブラームスはウィーンで着々とコレクションを増やしていった。

ところで、ゲンズバッハーと一緒に演奏した際、チェロソナタはメヌエットで終了する三楽章形式であったという。それなら、例えばヘンデルの同じホ短調のハレソナタ(フルートと通奏低音のための)と重なる部分が出てくる。そう思って聞いてみると、確かに重なって聴こえて来るから不思議だ。

そのあと、ヘンデルのハレソナタの緩徐楽章が、恐らくヘンデル本人による作曲ではないというのは、旧友クリザンダーがブラームスに伝えたのであろうか。3年後、ブラームスはもとの緩徐楽章を省いて、新たなフィナーレが書いてop.38として出版に回した。その最終楽章はヘンデルではなくバッハの『フーガの技法』を主題に採用しているのはどうしたわけだろうか。

『フーガの技法』が展開される中、一瞬だけ、ベートーヴェンのハ長調ピアノソナタの断片がピアノで奏されることにも、この最終楽章の成立を考えるときに重要な点が含まれていると思うけれど、いまはここまでしか書けない…。

以下、ベートーヴェンのピアノソナタ op.2-3の第1楽章から

 

・・・・・

2019年11月26日(火) 20:00開演
「ブラームス&シューマン」
チェロ: 金子鈴太郎
ピアノ: 仲道祐子
https://www.cafe-montage.com/prg/191126.html

マリア・ストゥアルト この世界から

1852年、ロベルト・シューマンの手には女王マリア・ストゥアルトの5つの詩があった。
それは年代順に女王が19歳、24歳、26歳、43歳、そして死の年の44歳に書かれたという5つの詩であった。

 

「マリア・ストゥアルトの5つの詩」op.135

1曲目 ト長調
フランスを離れる女王の詩 一度目の夫、フランス王との死別

2曲目 ト長調
スコットランドでの二度目の不幸な結婚 祝福されない長男の誕生

3曲目 ハ長調
夫の暗殺に関わり、スコットランドを追われたマリアが、逃亡先からイングランド女王エリザベスに書いた手紙

4曲目 ホ短調
エリザベス女王に対する謀反の嫌疑 死を覚悟するマリア

5曲目 ホ短調
マリアの最後の祈り

 

これをシューマンの人生に重ねてみた

1曲目 シューマン19歳
ベートヴェンとシューベルトの死後 ライプツィヒ大学を去りヴィークに師事 まもなく最初のピアノ作品を作曲

2曲目 シューマン24歳
天才少女クララとの運命の糸が絡まりはじめる 兄が死去 初めての憂鬱症ハンブルクでブラームス誕生

3曲目 シューマン26歳
クララと親密な中になるも クララの父ヴィークはシューマンを出入り禁止にする 以後、シューマンはクララにあてて大量の手紙を書き続けることになる

4曲目 シューマン43歳
デュッセルドルフでの指揮者としての活動に行き詰る 大変な憂鬱症 歌曲集「マリア・ストゥアルトの5つの詩」を書き始める

5曲目 シューマン44歳
ブラームスが登場する 翌年にライン川に投身


3曲目がクララの調であるハ長調 C-durで書かれていることや、4曲目と5曲目が歌曲集『詩人の恋』の「
ラインの聖なる流れに」と同じホ短調で書かれていることなど、この短い曲集に張り巡らされたシューマンの意図は、彼の神経のように恐ろしいほどに緻密だ。

おそらく彼の人生の全てはその通りに運び、この作品はシューマンにとって最後の歌曲作品となった。

・・・・・

2019年11月19日(火) 20:00開演
「マリア・ストゥアルトの詩」
メゾソプラノ: 三井ツヤ子
ピアノ: 久保千尋

https://www.cafe-montage.com/prg/191119.html

これをサリエリに捧ぐ ‥ゆえに我あり

1795年、スロバキアの首都ブラティスラバにあるケグレヴィチ家の宮殿に令嬢のピアノ教師としてベートーヴェンは招かれた。

ケグレヴィチ家は、モーツァルトがウィーンに来る前からウィーンのブルク劇場の監督を任されていた名家で、重鎮サリエリとの繋がりも深かった。
ベートーヴェンはop.2のピアノソナタを書いた1795年に初めてサリエリに出会い、ケグレヴィチ家の令嬢バベッテとの関係はその後で恋愛に発展、長大なop.7のピアノソナタを捧げた。

そのケグレヴィチ宮殿は、今では「ベートーヴェン・アパート」という宿屋になっている。

バベッテの父、カールはケルントナートーア劇場(ウィーン国立歌劇場の前身)の監督であった。その劇場で1799年にサリエリの歌劇ファルスタッフが初演され、ベートーヴェンはその歌劇のアリアによる変奏曲を作りバベッテに捧げた。翌年、ベートーヴェンはブルク劇場に華々しくデビューすることになる。

ブルク劇場で演奏されたピアノ協奏曲第1番は、令嬢バベッテにおそらくは結婚祝いとして捧げられた。作曲家・演奏家として確固たる地位を手に入れたベートーヴェンは、翌年には歌劇の分野に目を向け、正式にサリエリに弟子入りをしてイタリア語歌劇の勉強を始めた。

ハイドンに連れられてウィーンにやって来てからの数年、パトロンの貴族達の間での高い評価を足がかりに、ウィーンという大音楽都市の檜舞台の中心に華々しく登場するにあたって、重要となったものはウィーンの重鎮サリエリとの関係と、もう一つは「悲愴」ソナタ op.13の大評判であった。

ここで、ベートーヴェンがサリエリに捧げた唯一の作品、3つのヴァイオリンソナタ op.12について、なぜこれがサリエリの為の作品なのか‥ということを知りたいと思い、でも、まったく情報がないので行き詰っていた。

まずは作品の性格から‥ ベートーヴェンがサリエリの作品を最初に聴いたのは、選帝侯が招聘したサリエリの歌劇「アルミーダ」であった。その序曲の中に、ベートーヴェンが第1番のソナタの冒頭に使ったようなユニゾンの楽想が確かにある!

「私はオペラを作曲するべきではございませんでしょうか…?」
そんなアピールを滲ませて、ベートーヴェンがサリエリ師匠に捧げるソナタを作曲したのだと想像してみれば、第2番ソナタの冒頭にも、人を舞台に誘う優雅な調子が含まれているように思えてくる。

そして、これまでの3曲セットの作品(op.1、op.2、op.9)には必ずあった短調の作品が含まれていないことも、何かサリエリ師匠と関係があるのだろうか。
第1番 ニ長調、第2番 イ長調‥と来れば、次はハ短調かと思いきや、第3番はその裏返しの変ホ長調で、そこからハ短調に頻繁に訪れるという手の込んだことをしている。

D-dur、A-dur、Es-dur‥アントニオ・サリエリに捧ぐ‥

??もしかして

初版の楽譜のタイトルページを見てみるとそこには確かにこう書いてある。

composta, e Dedicate al sigr Antonio Salieri



D – A – Es . . . アントニオ・サリエリに捧ぐ


これは本当だろうか。誰か賛成してくれるだろうか。そして、サリエリ師匠は果たして喜んでくれたのだろうか。

ベートーヴェンの快進撃は、このあとまだまだ続く。

・・・・

19年11月14日(木) 20:00開演
「L.v.ベートーヴェン」 – ヴァイオリンソナタ vol.1 –
ヴァイオリン: 上里はな子
ピアノ: 松本和将

https://www.cafe-montage.com/prg/191114.html

メンデルスゾーン、三角、四角の関係

フェリックス・メンデルスゾーンの姉、ファニーの夫となったヴィルヘルム・ヘンゼルには妹がいた。その名はルイーゼ・ヘンゼル。ロマン派の重要な証人となったベッティーナ・ブレンターノの兄、クレメンス・ブレンターノはルイーゼに強烈な片思いをした挙句、敗北した。

フェリックスのピアノの先生、ルードヴィヒ・ベルガーもルイーゼに生涯癒えることのない片思いの恋をした。ある日、友人であるルイーゼの兄がベルガーの元に、最近妹に燃えるような恋心をもって、やはり敗れた別の男、詩人ヴィルヘルム・ミュラーが書いた「美しき水車屋の娘」という詩を持ってきた。衝撃を受けたベルガーは即座に10の歌曲を書いた。

“メンデルスゾーン、三角、四角の関係” の続きを読む

室内交響曲 – Interior of the Sky

「十字をお切りになって、せめて一度でもいいからお祈りになって」
「ああ、いいとも、何度でもきみのいいだけ祈るよ!素直な心で祈るよ、ソーニャ、素直な心で…」
彼は、しかし、なにか別のことを言いたかった。

____

ラスコーリニコフがその言葉を最後まで言うことはなかった。
そのことによって『罪と罰』の作中のみならず、これまでに書かれた物語の最も美しい一場面が生れた。世界の終わりの夢を見た、そのあと、病の癒えた二人が無言のまま新しい物語へと歩を進める、あの最後の数ページが。

彼らは最後の最後で出会い、夜を迎え、永遠になった。

“室内交響曲 – Interior of the Sky” の続きを読む

クープランに、墓はない。

ラヴェルが中心となって設立した独立音楽協会は、1910年4月20日に第1回となる音楽会を開催し、ロジェ=デュカス、カプレ、ドビュッシー、ドラージュ、コダーイの作曲が演奏されたほか、ラヴェルのピアノ組曲『マ・メール・ロワ』とフォーレの歌曲集『イヴの歌』の全曲初演が行われた。

『ガスパールの夜』とほぼ同時期に書かれた、ペローの童話集のための『眠れる美女のパヴァーヌ』を押し広げた4手連弾のピアノ曲集『マ・メール・ロワ』は、同じ年にピアノ独奏版がラヴェルの友人で出版社デュランの従弟でもある、ジャック・シャルロによって初演された。

独立音楽協会の華々しい立ち上げに成功したラヴェルは、ディアギレフから委嘱されていたバレエの新作、『ダフニスとクロエ』のピアノ版を翌5月には完成させ、自信に満ちた表情でオーケストレーションに取り掛かっていた、その時、パリに激震が走った。1910年6月25日『火の鳥』がピエルネの指揮で初演されたのである。 “クープランに、墓はない。” の続きを読む

時間の終わりの音楽、あたえられた翼

結論からいえば、彼らには音楽以外の何の意図もなく、私の観たものは全て幻影であったのだ。

「あなたが行くなら」チケットを一緒に買っておいてくれると、出不精の自分を誘ってくれる人がいたから、その場でお願いをした。数日後、到着したホールの入り口で「あなたと私は隣の席ではないですよ」とその人に言われて、手渡されたチケットがはたして何への入場券なのか、実感のないままに私はホールに吸い込まれた。

“時間の終わりの音楽、あたえられた翼” の続きを読む

映画「天気の子」、ラブソングのあとで

自分はいま、京都にいる。

今度東京に行ったら、その東京は自分の知っているはずの東京ではないかもしれない。
電車の駅の中と外を行き来し、過ぎ行く人の顔を眺め、ざわめく声を聴きながら、それがいつもの東京であるのだと言い聞かせる事しかできない。いつも、東京ではそうなのだから。

ひとつの歌によって流された大量の涙は巨大な都市を飲み込んで、今も空から降り続いている。その歌を歌っていた人は姿を変え、ひたすらに祈っていた。その姿を見て、何のためにそうするのかと、自分は尋ねることが出来ない。
東京に来た理由でさえ、自分は誰に尋ねればいいのだろう。
誰がその答えを持っているのだろう。

“映画「天気の子」、ラブソングのあとで” の続きを読む

メンデルスゾーン –  マタイ受難曲の行方

「完全にオーケストラ作品として演奏されるべき」
1825年、ベートーヴェンが最後の弦楽四重奏を、そしてシューベルトが二つの巨大なピアノソナタを書いていたまさに同じ時に、16歳のフェリックス・メンデルスゾーンがこのような作品を書いていた。それは親友エドゥアルト・リーツに捧げられた。

“メンデルスゾーン –  マタイ受難曲の行方” の続きを読む