感傷的なワルツ

シューベルトはその短い生涯を、たくさんの友人に囲まれて過ごした。

シューベルトの死後、彼を慕う友人が口々に「私のシューベルト」を語って、それがしばしば互いに矛盾をはらむ内容であったために整理がつかず、しばらくシューベルトに関しての本格的な伝記が記されることはなかった。

シューベルトの死後30年を経た1860年代に、クライスレという人が様々な証言や文献をもとに初めての本格的なシューベルト伝を書いた。それに対して、「面白おかしく書いているところがある」として、シュパウンという人が同じ年に寄稿した文章がある。

シュパウンはシューベルトと終生の親友であり、シューベルトの最もシューベルトたる所以を示している「幻想」ソナタを、「君が好きだといったから」といって、シューベルトから献呈を受けた人物である。そんな彼が晩年に語ったフランツ・シューベルトを辿ってみる。

ウィーンの大学で法律を勉強していたヨーゼフ・フォン・シュパウンは、同時に神学校のオーケストラで第2ヴァイオリンのトップを弾いていた。そこで、第2ヴァイオリンセクションに新しく入ってきた、まだ12歳だったフランツ・シューベルトと知り合い、その才能に驚嘆した。

「私の後ろに眼鏡をかけた一人の少年が立って、私の譜面台から一緒に弾いていた。音楽に寄せる彼の喜びと演奏の際の熱心さが、私の注意を彼に向けた。それがフランツ・シューベルトで、すでに子供のころから巨匠であった」 (シュパウン)

シューベルトはすでにたくさん作曲をしていて、ただ、父親が彼が音楽をやるのを望まないので、しばしば五線譜が足りないことがあり、普通の紙に五線を弾かなければならなかった。シュパウンは大量の五線紙をシューベルトに買い与えたが、それらは信じがたい速さで彼の作品で埋め尽くされた。

シューベルトは生前全く何の援助もうけず、彼の作品に惨めな金額しか支払わなかった出版社は、「水車屋の娘」の版を重ねることによって家が買えるほどの利益を得、「水車屋の娘」を一度歌っただけで、シューベルトがその作曲に対して受け取った三倍の金額を受け取った歌手もいる。

「拝啓 貴殿にとって私の名が、全く見知らぬものではないことを期待しつつ、私はここに謹んでお願いを致すものであります。私の作った曲のいくつかを、安い報酬で出版することを引き受けていただけないものでしょうか。ピアノ伴奏つきの歌曲、弦楽四重奏、ピアノソナタ‥そのほか八重奏も1曲作りました‥」
(シューベルトよりブライトコプフ社へ)

シューベルトは、ベートーヴェンの「フィデリオ」を愛し、モーツァルトの「レクイエム」を神々しい比肩しえない作品と述べ、ウェーバーの「魔弾の射手」冒頭の重唱が好きで、よく一人で小さな声で歌い、ヘンデルを非常に高く評価し、グルックのオペラをピアノでほとんど暗譜で弾いた。

シューベルトの歌曲の際立って心情のこもった歌唱によって、最大の貢献を果たした宮廷オペラ歌手フォーグルは、高齢になりほとんど声が出なくても、当時のあらゆる声に恵まれた歌手よりもはるかに感動的に歌った。死の一年前にもこの高貴な老人は「冬の旅」全曲を歌い、それが彼の最後の歌となった。

「シューベルトはいまだに、彼の素晴らしい歌曲についての才気ある批評家の出現を待っている。永久に感嘆の対象になるであろう、詳しい論述と評価をするだけのことがあったであろう作品、『美しい水車屋の娘』そして、かつてドイツ語に付けられた最も美しい音楽といえる感動的な『冬の旅』‥」

と、語るシュパウンは「シューマンなら、その仕事に適していたかもしれない。」とも言っているのだが、シューベルトのほぼ全生涯を見届けた後、ロマン派の勃興とシューマンの死、そしてワーグナーの出現までを体験する人生とはどのようなものであったのだろう。
1年後、シュパウンは世を去った。

仲間で楽しむための音楽としてシューベルトが書いた舞曲は、直接にはシューマンのパピヨンからダヴィッド同盟舞曲集、そして謝肉祭を生み出すことでロマン派の原動力となり、長い目で見れば、60年代のロックがサイケデリックに傾いていくときの、あの超現実ともいえる感覚を、すでに150年前に予言していた。

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2016年 3月23日(水) 20:00開演
「感傷的なワルツ」 ― シューベルト ピアノ作品全曲シリーズvol.6―
ピアノ: 佐藤卓史
http://www.cafe-montage.com/prg/160323.html