ワーグナー、ヴェーゼンドンク

10代のワーグナーはまず芝居の台本を書いて、それに付随する音楽を書こうとした。18歳の時に初めて本格的な音楽の先生につくことができ、ベートーヴェンの音楽に心酔し、演劇の役者よりも立派に演技をするオペラ歌手に魅了されて、段々と「楽劇」という、後に自らが生み出す世界に近づいて行った。

ワーグナー は「リエンツィ」、「オランダ人」、「タンホイザー」そして「ローエングリン」を発表。オペラ作曲家としての地位を確立し、フランツ・リストの知遇も得て、いよいよ「楽劇」において音楽に革命をもたらす…という前に、ただの革命家としてドイツ三月革命に参加して指名手配される。

フランツ・リストの助けもあって、国外に逃亡したワーグナーはスイスに落ち着いた。そこで彼は作曲をせず、まず執筆活動に入り、そこで初めて「楽劇」の基本となるコンセプトを打ち立てる。そして、スイスの山岳地帯でみた幻のような景色に触発されて「指輪」の台本を書き始める。

ここでもワーグナーの興味はまず台本であって、「指輪」の台本を数年かけて完成させた後すぐに、チューリッヒのホテルで朗読会を開いて台本を販売した。この間、ワーグナーはほとんど作曲をしていない。
そういえば、「言葉のないリング」というのをマゼールが作って指揮していたけれど、ワーグナー本人は「音楽のないリング」を先に発表していたというわけである。ちなみに「マイスタージンガー」においても、ワーグナーは作曲をする前にウィーンで台本完成の朗読会を開いている。
「指輪」の台本を書いていた頃、ワーグナーはヴェーゼンドンク夫妻と知り合う。この夫人の方とワーグナーが不倫の関係にあった。ある伝記では「深い関係」というわけではなかったと熱心に書いてあって、そうかもしれないし、そう
でもないかも、今となっては思いたいように思うほかない。
とにかく、ワーグナーがヴェーゼンドンク夫人に熱中していたことは本当らしく、出会ってすぐ、「M.W.夫人のアルバムのために」というピアノソナタを書いて夫人に捧げていた。夫人もワーグナーを文学と作曲の両方で尊敬していて、自作の詩をたくさん書いてワーグナーに捧げていた。
ヴェーゼンドンク夫人と近づくにつれ、その恋の終焉の近いこともだんだんとはっきりしてきて、鬱病の激しかったワーグナーは「指輪」の作曲を中断して、悲劇的な物語「トリスタンとイゾルデ」に着手する。
このとき、すでにワルキューレの重要な部分は作曲していて、それを中断したというくらいだから、ワーグナーがどれほどの鬱だったのか、まったく計り知れない。同時期に、夫人から捧げられた詩から2つを選び「トリスタンとイゾルデ」の習作として、ピアノとソプラノのための歌曲を書いた。
「トリスタン」第三幕の印象的な前奏曲の雛形を含む2曲に加えて、ヴェーゼンドンク夫人による3つの詩に音楽をつけて、5曲からなる壮大な歌曲集を完成させた。これが「ヴェーゼンドンク歌曲集」である。
第二次大戦後のバイロイト音楽祭で重要な役割を担った二人の指揮者、ブーレーズとバレンボイムが揃って「ワーグナーがあってはじめて、現代につながる音楽の歴史の扉が開けた」みたいなことを言っている。
現代の音楽というのはマーラーとかシェーンベルクとかドビュッシーとか、ブーレーズ本人の音楽だったりもする。果たして、ワーグナーが開いた扉とは何か。

それは和声ではない。

ワーグナーは自分が転調さえ自由に扱うことができず、メンデルスゾーンに見せたら笑われる程度のものだと述懐している。モーツァルトとベートーヴェン以降、複雑極まる半音階転調を極地までもっていったのはシューマンと、何より晩年のショパンである。

極端に言えば、ワーグナーの音楽進行はメンデルスゾーン、シューマン、そしてショパンが見せた急速な展開を、ありえないほどにゆっくりとした時間軸に引き伸ばしたものである。初めに触れたようにワーグナーにはまず台本があった。そして、その台本に見合う時間軸を「楽劇」の形で見出した。
そしてアドルノが「本来の意味で彼によって発見された」と書いたオーケストレーション。それはオーケストラにおいて、それぞれの楽器が「楽器らしさ」を失ったはじめであった。
チェロをチェロらしく、フルートをフルートらしく響かせることを目指さないワーグナーのオーケストレーション。それはワーグナーのピアノ作品におけるピアノらしさの不在とも関係している。そして驚くべきことに、ヴェーゼンドンク歌曲集の中のピアノはエリック・サティをはっきりと予告しているのだ。

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2016年3月2日(水) 20:00開演
「ヴェーゼンドンクの歌」
ソプラノ:日下部祐子
ピアノ:佐竹裕介
http://www.cafe-montage.com/prg/160302.html