モーツァルト – Episode 0

1762年
モーツァルトは6歳にして旅に出た。

その後の4年間で、ザルツブルクからウィーンへ。シュトゥットガルトからフランクフルト、さらに
ブリュッセルからパリ、そしてロンドンへ。各地でその土地最高の音楽家を凌駕する演奏と即興を披露し、センセーションを巻き起こしていた。旅の中でモーツァルトは各地で最先端の音楽に触れ、それらを瞬く間に吸収しながら果てのない進歩を遂げていた。8歳になったモーツァルトは鍵盤演奏と即興、そしてヴァイオリン演奏ともに、神童として6歳でザルツブルグを離れたときとは「まるで比べ物にならない」(父談)能力を発揮するようになっていた。モーツァルトがプロの音楽家として最初に書いたのはヴァイオリンソナタであった。すでにこの天才が生まれる前、不滅のヴァイオリン教則本を37歳にして書いていた父レオポルトは、息子のこの作品を「作品1」として出版してヴェルサイユのヴィクトワール王女に献呈した。モーツァルトがプロの音楽家として最初に書いたのはヴァイオリンソナタであった。すでにこの天才が生まれる前、不滅のヴァイオリン教則本を37歳にして書いていた父レオポルトは、息子のこの作品を「作品1」として出版してヴェルサイユのヴィクトワール王女に献呈した。センセーショナルな4年間の旅を終え、ザルツブルグに帰ってきたモーツァルトは、翌年ウィーンにてマリア・テレジアに謁見し、その息子である皇帝ヨーゼフ二世(アマデウスの…)の希望でオペラを書くものの、12歳の天才による作品は数々の妨害にあってまともに上演をすることが叶わなかった。「ウィーン人が馬鹿げたものを好み、厳粛で理性的なものを見たいという熱意と、それを理解する能力にがともに欠けており、他愛もない冗談に手を叩いて喜び大笑いする反面、感動的で美しい演技や含蓄深い言葉のやり取りの前では、そのセリフが聞こえないほど大声で話し出す」(父談

モーツァルトは翌年、イタリアに向けて旅立った。

「お母さん、名の日ですね、おめでとう。まだあと百年くらい長生きしてください。僕はなにもしてあげられませんが、僕が帰ったら優しくしてあげます。それまで、お達者で」
― 1770年7月21日 ボローニャより

「かわいそうなマルタ嬢が、また元気になられることを。でも、それがかなわなくても、あまり悲しんではいけません。彼女がこの世にいた方が良いかどうか、神のご意思はいつも最上のものなのですから。でも、彼女には、今の雨のあとには晴天がやってくる、と慰めて下さい。」
― 1770年9月29日 ボローニャより

当時、音楽における最高峰とされたイタリア。ミラノ、フィレンツェ、ボローニャそしてローマの各地を旅したモーツァルトは、グルックの師サンマルティーニや対位法の大家マルティーニと出会い、ローマ教皇からグルックと同じ勲章を受け、ボローニャのアカデミーに全会一致で迎えられた。

1770年12月
オペラ「ポント王ミトリダーテ」のミラノ初演における成功が、モーツァルトのオペラ作曲家としての本格的なスタートとなったが、1772年、ザルツブルグに戻ったモーツァルトは、その年に就任した新たな大司教のもとで、これまでのように自由な旅を続けることがだんだんと難しくなっていた。

1773年
イタリアの旅を終えたモーツァルトはウィーンでハイドンの音楽との運命的な出会いを果たし、奇跡の3年間を迎えることになる。
その3年の間に現在でも頻繁に演奏されるト短調K.183を含む数々の交響曲、弦楽四重奏曲、ヴァイオリン協奏曲、ピアノソナタ、そしてピアノ協奏曲「ジュノーム」が誕生した。

1777年
モーツァルトはすでに完成されたモーツァルトととしてザルツブルグにいた。たとえ彼の人生がここ終わっていたとしても、その天才は後世に語り継がれるべき高みに達していた。
ここでモーツァルトは最後の旅に出る。伝説の始まりである。


episode 1
つづく