セザール・フランク

1822年
セザール・フランクはリストより11年、ワーグナーとヴェルディより9年遅く、そしてブルックナーより2年、ブラームスより11年、サンサーンスより13年早く生まれた。

幼少期に特異な才能を見せ、父親の強力なサポートを得て、若くして当時の大家と並ぶ存在となった作曲家としてまずモーツァルト、そしてコルンゴルトの名前があげられるが、セザール・フランクも20歳まではほぼ父親の管理下に置かれた神童であった。

19歳のフランクが作品1のピアノ三重奏曲を作曲した1841年。ショパンが存命で、この作品を激賞したリストは交響詩をまだ作曲しておらず、ワーグナーもやっと「オランダ人」を書き上げたばかりの時期のテーブルにこの作品を置いて眺めたときに、そこに後期ロマン派の空気がすでに流れているのに驚かされる。

1847年、後期ロマン派を代表する音楽形式の一つとされる、交響詩というジャンルの作品を他の誰にも先がけて書いたのもセザール・フランクであった。

つまりフランクはリスト、ワーグナーと同時代の作曲家であり、彼らと同じものを、その若く敏感な感覚でもって見聴きし、そこから未来の音楽を紡ぎだしていた人であったということをまずはっきりさせておく必要がある。

青年期を過ぎ、恋をして、強権的な父親の力の及ばない自分だけの世界を持ち始めたというところでも、フランクの人生には、モーツァルトやコルンゴルトのそれと重なるところがある。

妻となったフェリシテはもともとフランクのピアノの生徒で、その両親がコメディ・フランセーズのメンバーだったことからフランクに劇音楽を書くようにせがんだらしいが、そこにフランクのなすべき仕事はなかった。ともあれ、フランクの本格的な創作活動は、次なる時代の到来を待つことになった。

すでにワーグナーが決定的な作品を書き終えていた1871年、サンサーンスが提唱して国民音楽協会が設立され、すでに50歳になろうとしていたフランクはその創設メンバーとなった。国民音楽協会の演奏会では室内楽の作品も頻繁に取り上げられ、20世紀に向けた新たな音楽の台頭のちゅうしんとなった。

1874年、フランクは「トリスタンとイゾルデ」の前奏曲を初めて聴いて感銘を受けたといわれているが、それはようやくに自分の時代が来たことを知らせる鐘のごとく響いたのかも知れない。

1879年にフランクが書き上げ、翌年に国民音楽協会で初演された「ピアノ五重奏曲」は、強烈な賛否の声をもって迎えられた。

フランクのピアノ五重奏曲。
3楽章の室内楽作品というよりは、多くの場面を持つ単一楽章の交響詩といった面持を持つこの作品は、室内楽作品における「トリスタンとイゾルデ」であり、室内楽における交響詩という意味ではシェーンベルクの「浄夜」の偉大なる先駆けとなった。

フランクはその後、交響的変奏曲 (1885年)や交響曲(1889年)においては、20世紀を待つことなく、すでにハリウッド映画音楽やジャズまでをも見通す世界を繰り広げるなど、いかにも教会オルガニストのたる威厳ある面持で、さんざんに未来的なことをやって、そのせいで沸き起こった論争にはどこ吹く風であった。

フランクは弦楽四重奏(1890年)において、ようやく聴衆を味方につけ、同じ年に交通事故を起こし、その後遺症を引きずったまま、遺言ともいえるオルガンのための「3つのコラール」を書いて死んだ。

時代にしか答えを出すことのできないような論争を引き起こして、そのまま世を去ったセザール・フランクの残した作品は、その死後に圧倒的に受け入れられたが、いまだにその論争は続いているのである。
セザール・フランクとは果たして何者であったのか。

普仏戦争においてアルザス地方を失い、ドイツ帝国の台頭を許したフランスでは、同時にコミューン運動に端を発した内戦という暗い時代を背景として、さまざまな芸術運動が沸き起こっていた。絵画における印象派の展覧会、そして音楽においては「国民音楽協会」の設立がそれであった。

セザール・フランクはベルギー生まれながら、神童として世に出てから20歳過ぎまでを暫定的なフランス人として過ごし、そのフランス国籍が無効となったのちも、教会オルガニストとしてパリに滞在し、1873年にパリ音楽院教授に任命されると同時に再びフランスの国籍を取得した。

ところで、国民音楽協会の設立は1871年で、フランクはフランス人限定のこの協会の創設メンバーだったのだが、この時点で彼がフランス国籍を有していなかったということは、同僚のサン・サーンス等だけではなく、フランク本人も気づいていなかった。

フランス国籍を持つ者だけに就任の資格が与えられている、パリ音楽院の教授に推薦されたときに、フランス人じゃない、ということに気づかされたフランクの失望は並大抵ではなかったらしい。フランスの芸術の発展を叫んでいる時期のこと、確かにおなかの痛くなる出来事ではあったのだ。

フランクは人当たりの良い人物で、どんな人のことも非難するということがない。あまり成績の良くない生徒がいても、それぞれ人なりの個性があって、進歩のあり方があるはずだと励まし続けたし、自分の作品が上手に演奏されなかった時にも、満面の笑みと感謝をたたえて演奏者を抱きしめた。

教会のオルガン弾きで、人望があり、多くの優秀な生徒を輩出した偉大な教師でもあった作曲家。フランク以外にもそんな人がいた…メシアンだ。なんとなく伝えられている聖人像と、音響の渦がとぐろを巻いたような音楽とが、自然現象というか異常気象のように結びついている点でも、この二人は似ている。

フランクは、1876年から自身の作曲の弟子となった女性、オルメス嬢に穏やかならない感情を持っていたとされる。オルメス嬢に夢中だったのはフランクだけではない、サン・サーンスも凄いことになっていた。そんな中、フランクは1879年にピアノ五重奏曲を作曲した。

ピアノ五重奏曲は、マルシック四重奏団とサン・サーンスのピアノによって、国民音楽協会で1880年に初演された。サン・サーンスは、オルメスとの関係をめぐって、ものすごい感情をフランクに対して持っていたのだが、この五重奏曲の尋常でない艶やかさを前に呆然としてしまった。

リストの最難曲であろうが何であろうが初見でスラスラ弾いて神扱いされていたサン・サーンスは、この五重奏曲の激烈ピアノパートも同じように初見で演奏して、聴衆を阿鼻叫喚に陥れたのだが、そんなことはサン・サーンス自身にはどうでもよいことで、ただオルメスのことで呆然としていた。

演奏を聴いて興奮したフランクは、サンサーンスに祝福の言葉をかけにいったのだが、サン・サーンスはとても怒っていた。それは仕方のないことなのだ。自分の持っていたオルメスに対する激情が、そのままの形で投影されたような音楽を、サン・サーンスはその神の手で弾いてしまったのだ。

神々の対決。国民音楽協会において、ギリシャ神話のような修羅場を演出したフランクのピアノ五重奏曲は今でも演奏されるたびに聴く者を圧倒する。強烈な雷鳴の轟きを体験して、何が真実などどうでもよくなって、振り向くとそこには、腕を広げたフランクが最高の笑顔をたたえて立っているのだ。

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2016年7月8日(金)&7月10日(日) 20:00開演

「セザール・フランク」 ~ ピアノ五重奏
ヴァイオリン:田村安祐美  ヴァイオリン:相本朋子
ヴィオラ:多井千洋 チェロ:佐藤禎
ピアノ:佐竹裕介
http://www.cafe-montage.com/prg/16070810.html