ゴルトベルク変奏曲

バッハとは誰か。
ロマン派に溶け込んだバッハ。ジャズ・ポップスとしてのバッハ。ドン・ジョバンニになったバッハ。ベートーヴェンを爆発させたバッハ。いずれも同じ顔をしている。

1802年 ゲッティンゲン大学の教授であったフォルケルによるバッハの評伝が出版された。知遇を得たフリーデマン・バッハとエマニュエル・バッハに直接取材をしたとされるこの画期的な著作は、バッハその人について語られた初めての、そしてほぼ最後の試みであった。

バッハその人に関する資料は、ほぼない。だからバッハその人のことは早々にあきらめて、バッハのそれぞれの作品を取り出し、その成立年代を推しはかって、その推理した作曲の経緯からバッハその人の顔を見たいと願うしかないのだが、バッハその人が1802年よりこちらに歩み寄って来たことは未だにないのである。

昔の話 いまの話 バッハは死後忘れられ のちに復活した という伝説。

しかし、よく考えてみると、バッハは今に至るまで一度も忘れられたことはない。死後にその評価が下がったということもなく、むしろ今日に至るまで上がりっぱなしなのだ。「人々は父の作品を見るとすぐに、それが傑作であると断定する」と息子が書いたのは、バッハの死後15年後のことである。

大衆に受けないのは、その芸術があまりにも高度で高尚であるから という伝説。

果たして大衆とは誰のことであろうか。みんな…バッハの音楽を好きだという人がみんな、それを理解する自分を大衆から隔離された特別なものだと思っているのだとすれば それこそ今度は大衆が深淵からこちらを覗きこむというものである。

バッハの無伴奏組曲を再発見したのはカザルスで、ゴルトベルク変奏曲はグールドがポピュラーにした。それは嘘ではない。
でも、それ以前にもそれらの作品が忘れられていたことはなかった。それらが重要な作品であることは、1802年にすでに書かれていて、そのあとそれを読まなかった重要な音楽家は皆無…ではないのだろうか。

フリードリヒ大王のお抱えであったイツィッヒはフリーデマン・バッハや、同じくフリードリヒ大王のお抱えであったエマニュエル・バッハと懇意であった。そのイツィッヒの孫娘と結婚した銀行家アブラハムの娘がファニーであり、息子がフェリックスであったことは、確かに伝説を必要としている。

フォルケルの1802年のバッハ伝をホフマンが読んで、「クライスレリアーナ」にゴルトベルク変奏曲を組み込み、シューマンがその構造を詩に置き換えて音楽作品としたことは、確かにロマン派の一大事件であった。
その終楽章が銀行家アブラハムの息子、フェリックス・メンデルスゾーンによる作品12のカンツォネッタであることも、おそらく偶然ではないのである。

バッハを不滅にする作業は1802年の伝記以外にも様々な形で行われていた。ベートーヴェンはその第30番作品109のピアノソナタ、そしてディアベッリ変奏曲の中にゴルトベルク変奏曲の構造を組み込んだ。それ以降の古典音楽の進展、さらに大きな聴衆の獲得、それは同時にバッハの世界を押し広げることを意味していた。

1955年 ゴルトベルク変奏曲を録音し終えたその4日後、グレン・グールドが同じスタジオに戻って録音したのがベートーヴェンの第30番ソナタであった。このソナタの中に含まれているゴルトベルクの構造を浮き彫りにしたことは、不世出の天才による鮮烈なメッセージであった。

多忙なメジャースタジオのブッキングのことを考えても、ゴルトベルクとベートーヴェンが初めから一つのセットとして計画されていたことは間違いない。ゴルトベルク変奏曲と作品109のソナタを連続して聴くことで、そこに大きな物語のはじまり、その刻印が底の知れない深さで刻まれているのを知ることになる。

…部屋で、ひとりで音楽を聴き、それを素晴らしいと思うとき、自分はすでにどこかの誰かが歩んだのと同じ道を歩いている。同じ本を自分と同じように読んだ人がどこかにいる、ということと同じである。

でも、一生のうちにその誰か、あの懐かしい旅を共にした人間に出逢うことはないのかも知れない

____

2017年11月19日(日) 20:00開演
「ゴルトベルク変奏曲」
ピアノ: 鈴木華重子
http://www.cafe-montage.com/prg/171119.html