ドビュッシーのいない世界

この世の、時間の進み方を変えた人が死んでから100年。
音楽は長い間、より複雑になっては人を煩わせ、より安易になっては人を堕落させてきた。
言葉と同じだ。

複雑とは何か?111000111000000110001010111000111000000110101111111000111000001010001000111000111000000110000110
「おはよう」をUTF-8の2進法で書くと上のようになる、らしい。
果たしてどちらが複雑なのだろうか。

言葉の処理にかける時間を極力短縮する方向で言葉を発展していけばどうなるか。もしくは表現を細分化するためには時間を惜しまないという方向で言葉を磨けばどうなるか。人一人の一生を基準にすれば、時間は短いものである。ドビュッシーの時間は、ドビュッシーのいた55年間よりはるかに長い。

言葉を尽くせば物事の理解が深まるというのは、どの程度までにおいてそうなのであろうか。物事の人から人への伝達において、その事についてむしろ語らない方が認識の伝達が上手くいったかのように思われる場合、発言のプロセスとしてはより複雑であるかも知れない。しかし、全ては気のせいなのだが。

ドビュッシーの作品を取り上げることなく、ドビュッシーの没後100年の公演が出来ないかと考えた。

ドビュッシーの時間はいつから存在していたのか。ワーグナーの中に、フランツ・リストの中に、そしてベートーヴェンへと流れていく時間を体験することで、ドビュッシーの存在を捉えたいと思った。

今年のラ・フォル・ジュルネはテーマが「モンド・ヌーヴォー」になっていた。もともとは「亡命」というコンセプトだったらしい。故郷を喪失すること、そのノスタルジー、そうした中での表現の飛躍=新たな世界。その認識を伝えるプロセスが一つの流れとして見えてくるのが面白い。

ロマン派において、若きフランツ・リストだけが後期ベートーヴェンをそのままの形で受け入れた。彼が30の年までに書いた「亡命」の音楽は、ほぼそのままの形で印象派に受け入れられた。若きドビュッシーは パリ音楽院時代の課題であったベートーヴェンの最後のソナタを、果たしてどのように弾いたのだろうか。

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’18年5月8日(火)20:00開演
「新しい世界へ」
ピアノ:ジョナス・ヴィトー
http://www.cafe-montage.com/prg/180508.html