ドヴォルザーク、ブラームス

「彼はオペラ、交響曲、室内楽に器楽曲、あらゆる音楽を書いていて疑いもなく才能ある人物です。そして、しかも貧しいのです。どうぞこのことをよくお考え下さい!」

ブラームスはウィーンの「若くて貧しくて才能ある芸術家の補助金」に毎回応募していたドヴォルザークを出版社に紹介した。

1878年、絶頂期にあったブラームスの紹介を受けた出版社ジムロックは、ドヴォルザークに”ブラームスの流儀”で作曲を委嘱、その「スラブ舞曲」でドヴォルザークの名は一気にヨーロッパに広まった。外国での知名度が後押しする形で初めて自分の作品だけの演奏会をプラハで開いたドヴォルザークは、すでに37歳になっていた。

ドヴォルザークはウィーンにブラームスを訪ねた。「この燃え上がり!この抑揚、第2主題の優美さよ!」ブラームスはスラブ舞曲の譜面を手に舞い上がった。「一緒に弾こう!この最後のフリアントを!」ブラームスは低音パートを受け持ってものすごい速さで弾き始めた。

「主題の神髄を掴むまではあきらめない。君は偉大なレイハのようだ。ところでレイハはボヘミア人だっけ?」ブラームスはきいた。
「フランスアカデミー会員になった最初のチェコ人です」ドヴォルザークは答えた。
B「あっそう。で、ベートーヴェンの先生だったっけ?」
D「いえ、合唱団で一緒に歌っていただけです」
ブラームスは額の汗を拭いた。

ドヴォルザークは恩人に捧げようと持ってきたニ短調の弦楽四重奏曲をブラームスに手渡した。「ハンスリックのいう”健全な音楽性”によって、モーツァルトやハイドンを思い起こさせる。この世の秘密をことさらに説明するのではなく、4つの楽器が人生の喜びを語るのだ!」ブラームスは喜びを爆発させた。

「私はきっとショーペンハウエルを読みすぎた」とブラームスは続けた。「幻想のために私たちは生きている。でも、この世は私たちが思うものとは別の姿であり続ける。人はこの世で一番完全なもので、でもその完璧さのなんと頼りないことだろう‥」
ドヴォルザークはだんだん不安な気持ちになってきた。

ドヴォルザークはブラームスが不安に満ちた宇宙の住人であることに驚いた。「私はここウィーンで歴史の流れを解決しようとしている、変な老人だ」と言いながら、おもちゃ屋のショーウィンドウの前で、近所の子供にあげる人形やおもちゃを物色しているブラームスを見て、ドヴォルザークは不安になった。

ドヴォルザークは闇の奥を見つめながら、この目の前にいる「オリンポスの神」ブラームスと自分が似ているのではないかと思うとますます不安になってきた。ブラームスに別れを告げブルノに向かったドヴォルザークは、駅に迎えに来た親友ヤナーチェクに言った。
「あの素晴らしい人は‥なんと神を信じていない。」

ドヴォルザークの快進撃は続いた。ただ、宿願であったオペラの分野においてはなかなか思いどおりにはいかなかった。自信作であった「王様と炭焼き」「がんこ者たち」「いたずら農夫」、いずれもまったく成功しなかったというわけではないのだけれど‥ なぜだろう ‥

1887年、10年前に書いた「交響的変奏曲」がロンドンで大変な成功を収めているという電報が、指揮者のハンス・リヒターから届いた。ドヴォルザークは大変に喜んで、昔に書いたままにしていたピアノ五重奏曲を手にした。それを少し手直しして出版しようと思ったのだが、そこで彼は新たな霊感に取りつかれた。

ドヴォルザークは、モーツァルトからシューベルト、メンデルスゾーンからシューマン、そしてブラームスへと受け継がれた英知を注ぎ込んで、若き頃に書いたのと同じイ長調で、まったく新たな作品を書いた。それが古今の傑作と言われるピアノ五重奏曲 作品81である。

ブラームスは同じ1887年に親友フェルディナント・ポールの死に接して、霊感に見放されたように沈黙していた。若き日に書いたピアノ三重奏曲 作品8を思い切って書き直し、弦楽五重奏曲 作品111を完成させて完全に復帰したのは3年後、1890年のことであった。

その晩年、ブラームスはアメリカから帰ってきたドヴォルザークに、ウィーンに住んで自分の地位と財産の全てを受け継ぐようにと言った。ドヴォルザークは断った。1897年3月末、ドヴォルザークはブラームスに別れを告げに言った。4月3日、ブラームスは死んだ。

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2018年5月29日(火)&30日(水)
「ピアノ五重奏」
ピアノ: 松本和将
ヴァイオリン: 漆原啓子
ヴァイオリン: 上里はな子
ヴィオラ: 臼木麻弥
チェロ: 大島純
http://www.cafe-montage.com/prg/18052930.html