ラヴェル、コダーイ

コダーイとラヴェルは、ヴァイオリンとチェロのための特殊な二重奏曲の存在によって結ばれている。…と思っていたところが、どうやらその関係はそう簡単に説明の出来るものではないらしい。ここには20世紀室内楽のひとつの歴史が描かれている。

コダーイとバルトークとのことは先月に少し書いた。これから書くことはまた別の話だけれど、すでに書いたことと重なるところは出来るだけ省略したいと思う。

コダーイの無伴奏チェロソナタの1915年の成立を見るとき、まずバッハの無伴奏チェロ組曲が1915年の段階でどの程度知られていたかを考えるのだけれど、1825年には演奏譜が出版されて、のちにロベルト・シューマンも所有していたことからも、19世紀にまったく知られていなかったわけではないことがわかる。

20世紀になってすぐにカザルスが演奏を始めた。1913年までカザルスの生徒であり若きパートナーであったギルヘルミーナ・スッジアがバッハの1番と3番の組曲を弾き、残りの4曲をカザルスが弾いたというリサイタルの記録がある。

ギルヘルミーナ・スッジアは1913年にカザルスと別れた後、ヴァイオリンのイェリー・ダラー二(バルトークとラヴェルのミューズ)とピアノのファニー・デイビス(クララ・シューマンの一番弟子のひとり)と一緒にピアノ三重奏を結成した。スッジアのストラディバリウスは後にジャクリーヌ・デュプレが受け継いだ。

カザルスはスッジアと別れた翌1914年に、歌手のスーザン・メトカルフェと結婚。第1次大戦が始まるまでヨーロッパをツアーしてバッハを弾いた。レーガーの3つのチェロ組曲が1914年から1915年の間に書かれている。1915年、カザルスは初めてバッハの第3番組曲を録音した。

バルトークと一緒に弦楽四重奏曲を書いていたコダーイがひとり、ヴァイオリンとチェロのための二重奏に目を向けたのには、第一次大戦の影響で演奏メンバーが足りなくなることを見越しての事であっただろうか。しかし一度戦争が起こってしまうと、その二重奏でさえ演奏することは不可能になった。

1918年、ドビュッシーが死んだ。
1920年、雑誌ルビュ・ミュージカルが出版したドビュッシー追悼号の付録楽譜、”Tombeau de Claude Debussy”にサティ、ストラヴィンスキーやバルトークと一緒にラヴェルが寄稿したのが、ヴァイオリンとチェロのためのAllegroであった。

1920年 リヒャルト・シュトラウスとホフマンスタールの提唱でザルツブルグ音楽祭がはじまった。でも、はじめの年に上演されたのはホフマンスタール作の演劇「イェーダーマン」のみで、そこに音楽はなかった。

1922年の第3回音楽祭でのこと、ザルツブルグの”カフェ・バザール”にコダーイ、バルトーク、ミヨー、オネゲル、そしてウェーベルンが集い、さらにラヴェル、シェーンベルク、ストラヴィンスキー、ベルクそしてレスピーギの署名が持ち寄られて、ISCMー国際現代音楽協会が設立された。

そのISCMの設立記念演奏会では、前1921年に出版されたばかりのコダーイのセレナーデ 作品12がヒンデミットらによって演奏された。そして、翌1923年にはコダーイの無伴奏チェロソナタ 作品8とラヴェルのソナタ(ドビュッシー追悼の第1楽章を含む全4楽章)が演奏された。

その1923年にはラヴェル、ブゾーニ、シベリウス、ストラヴィンスキーの4名がISCMの最初の名誉会員に推薦された。その翌1924年に、1914年の作曲以来、完全に忘れ去られていたコダーイの二重奏曲 作品7がヴァルトバウアーとベアトリース・ハリソン(エルガー協奏曲の初演者)によって演奏された。

コダーイの二重奏曲(1914)、無伴奏チェロソナタ(1915)、ラヴェルのデュオソナタ(1921)、そしてそれらを総括する形で残されたバルトークのソロソナタ(1944)を作曲年代順に聴く。そこに立ち現れる物語はまだまだ書ききれないけれど、とりあえずは聴くというスタート地点を探し当てたいと思った。

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’18年6月4日(月)&5日(火)
「Duo&Solo」
ヴァイオリン:石上真由子
チェロ:金子鈴太郎
http://www.cafe-montage.com/prg/180604.html
http://www.cafe-montage.com/prg/180605.html