ラズモフスキー


1803年、「魔笛」のシカネーダーは自分が作った劇場、アン・デア・ウィーン劇場で上演するためのオペラを書いて欲しいとベートーヴェンに依頼して、ベートーヴェンは引き受けて作曲を始めた。

しかし、シカネーダーが提供した台本「家庭守護神 ウェスタの炎(Vestas Feuer)」の作曲はなかなか進まず、フランスの新しいオペラに魅せられていたベートーヴェンはだんだんとその「ウィーンのリンゴ売りの口から出てくるようなセリフ」の数々に嫌気がさしてしまった。

1804年、シカネーダーは借金に追われてアン・デア・ウィーン劇場を手放した。同じ年、ベートーヴェンの友人であったデイム伯爵が死んだ。ベートーヴェンは未亡人となったデイム伯爵夫人を頻繁に訪ねるようになり、オペラ「レオノーレ」に着手した。

1805年にオペラ「レオノーレ」は初演を迎えたが、数回の上演で打ち切られた。残された1803年の「家庭守護神」の断片を聴いてみると、ゲーテ同様、ベートーヴェンが「魔笛」の虜になっていたことが即座に了解される。しかし2年後の「レオノーレ」ではすでに「フィデリオ」の世界が展開されている。

1803年 ベートーヴェンは「クロイツェルソナタ」と「ワルトシュタインソナタ」を書き、同時に書き始めた「エロイカ交響曲」を翌年に完成させ、翌1805年に「熱情ソナタ」とピアノ協奏曲 第4番…いずれも「家庭守護神」が「レオノーレ」へと変貌したのと同じ力学で生み出された傑作である。

1806年、長すぎるとして大幅なカットを施された「レオノーレ」がたったの2回上演されたあと、ベートーヴェンは新たな世界に足を踏み入れる。交響曲 第4番、ヴァイオリン協奏曲、そして3曲の弦楽四重奏曲《ラズモフスキー》がほぼ同時に生み出された。

《ラズモフスキー》において、ベートーヴェンは再び「魔笛」の作曲家への憧れから「フィデリオ」までの道程を新たな形で物語っている。《ラズモフスキー》第1番、モーツァルトの弦楽五重奏のリズムに乗せて、チェロが歌うのは…バッハの「音楽の捧げもの」、つまり大王の旋律ではないだろうか…。

ところで、ラズモフスキー伯爵はヴァイオリンの大変上手な人で、ベートーヴェンのパトロンをしていたのみならず、1808年には自らシュパンツィヒ四重奏団の第三期のメンバーに加わってベートーヴェン作品の初演にも第二ヴァイオリンで参加していた。

ベートーヴェンは《ラズモフスキー》を中断して、リヒノフスキー侯爵のところで「熱情ソナタ」を書いたのだが、そこでリヒノフスキー侯爵と大喧嘩をしてしまった。侯爵のもとを去ったベートーヴェンは《ラズモフスキー》を書き上げた。

若いころから特別に目をかけられて、最初の6つの弦楽四重奏曲を献呈したリヒノフスキー侯爵は、ベートーヴェンにとっては無二のパトロンであった。仲直りがしたい。ベートーヴェンは出版社に送るタイトルページに書いてあった《ラズモフスキー》を消して《リヒノフスキー》にした‥そんな、まさか‥

ベートーヴェンはラズモフスキー伯爵にも「これまでに書いた最高の作品」の献呈先の変更について、なんとか説得しようとしたらしいけれど、ラズモフスキー伯爵が冷静な人で良かった。結局、3つの弦楽四重奏曲は《ラズモフスキー》として残された。

1814年、ラズモフスキー伯爵の宮殿にてロシア皇帝アレクサンドル1世を招いての舞踏会が開かれるというので、建て増し工事をしていた最中に宮殿は火に包まれた。全てを失ったラズモフスキー伯爵は引退して世間から遠ざかり、その20年後、誰にも知られず83歳で死んだ。

ラズモフスキー宮殿のあったところはラズモフスキー通りとして親しまれ、火事で燃えなかった馬の厩舎に少し手が加えられて、そこに今は人が住んでいる。その住居にはオーストリアの国民的作家ムージルが代表作「特性のない男」をそこで書いたという石板が掲げられている。
ラズモフスキー伯爵は不滅だ。

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2018年5月31日(木) 20:00開演
「弦楽四重奏」
ヴァイオリン: 漆原啓子
ヴァイオリン: 上里はな子
ヴィオラ: 臼木麻弥
チェロ: 大島純
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