モーツァルト – 1775年

「音楽が最も高度に完成した場合には、それはゲシュタルト(形態)となり、古代美術に備わっているような穏やかな力によって、私たちに働きかけてくる」とシラーが言ったのは、モーツァルトが死んでから数年後のことである。ゲーテはその完成形態が「ドンジョバンニ」であるとシラーに告げた。

ゲーテは続けて言った。
「ドンジョバンニはまったく孤立した存在です。モーツァルトが死んだために、このようなものが再び生まれてくるという希望は全て虚しいものとなったのです。」
シラーは沈黙した。

シラーは自身が提唱する「崇高なる芸術」と切り離すことのできない概念として常に「自由」を挙げた。
自由とはなにか
モーツァルトが生きたのはそのような問いが発せられた時代であった。

1771年、エマニュエル・カントはヒュームの懐疑論によって「独断による眠り」から抜け出すことができたとし、経験から得られる認識と、思弁によって立ち現れる観念の間に漂う人間の「自由」について語りだした。

自由を直接的に意識することは、我々には不可能である。自由に関する概念が「経験に関りがない」という消極的なものだからである。また、自由を経験から推論することも出来ない。経験は現象の法則_すなわち自由とは正反対のものを認識させるだけだからである。
(カント「実践理性批判」)

道徳的法則が我々に押し付けてくる自由の概念からの自由、というややこしい学問を始めたカントが生きていたのは、フリードリヒ大王統治の啓蒙専制国家プロイセンであった。カントが「純粋理性批判」を書いたのは、フリードリヒ大王の死ぬ2年前のことである。

ところでフリードリヒ大王とは、あのテレマンを名付け親に持ち、クヴァンツにフルートを習って音楽に没頭しすぎて父に虐待され、ついには殺されかけたがなんとか生き延びてエマニュエル・バッハを登用し、父王の死と共に即位して劇場を造り、大バッハを呼んで「音楽の捧げもの」を書かせたあの人物である。

カントが目覚めた1771年、モーツァルト父子はイタリアを旅して就職活動をしていた。そしてミラノで上演する為のオペラ「ルーチョ・シッラ」の作曲を依頼されてザルツブルグに帰ってきた翌日、神童モーツァルトと父レオポルトの良き理解者であったザルツブルグのジークムント大司教が死んだ。

翌1772年、ザルツブルグに新たな大司教としてコロレド伯爵がやってきて、内政とともに文化方面でも改革に乗り出した。宮廷楽団が再編され、それまで公式の俸給はない代わりに自由な行動を許されていたモーツァルトは、生まれて初めて雇われの身となった。

雇われの身となってすぐ、作曲の出来上がった「ルーチョ・シッラ」を持って、モーツァルト父子はまたイタリアへと旅立ち、その年の暮れにミラノ・スカラ座で初演を聴いた。翌年の3月、ザルツブルクに帰った親子はその4か月後、今度はウィーンへと旅立った。

1773年、ウィーンにいたモーツァルトに何が起こったか。
”時間の芸術を考え、それでいて月のありがたさをまったく忘れてしまうことがないならば、少しでも理性のある人は…僕を愚か者だと決めつけるでしょう。”
モーツァルトは姉ナンネルに書き送っている。

この1773年のウィーン滞在はモーツァルトがヨーゼフ・ハイドンの音楽と巡り合ったその初めだとするのは、おそらく間違いではないと思うけれど、その具体的な証拠も特にないのである。ハイドンの弦楽四重奏曲作品20とエステルハージ・ソナタ集はまだ出版されていない。

モーツァルトがウィーンで巡り合った音楽が実際に何であったかはわからない。でも、モーツァルトがこの時期にヨーロッパを席巻していた新たな空気に初めて接したことは間違いがない。幼少の頃に訪れたマリア・テレジアのウィーンではない、全く違う空気にモーツァルトは触れてしまったのだ。

1765年、不幸な父フランツ1世の死の後を継いで、ヨーゼフ2世はハプスブルク帝国の皇帝になった。実質的には母マリア・テレジアが実権を握っていた宮殿に、ヨーゼフ2世はプロイセンの空気、つまりフリードリヒ2世の啓蒙主義を撒き散らした。

母マリア・テレジアのプロイセン嫌いを横目に、1772年、ヨーゼフ2世はプロイセンと組んで第1次ポーランド分割に加わって、ハプスブルク帝国の領土政策の中心に自らを置いた。そうしてマリア・テレジアの統治が実質的に終わりを告げたことを、ウィーンの人々は知ることになった。

1773年、ゲーテが「ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン」を発表。同時に「ウェルテル」を執筆、そして「ファウスト」に着手している。その時代の空気そのもの、いまさら読めない「ウェルテル」、読んでみた。そのほとんどが書簡の形で書かれる中に、若きゲーテを通した時代精神が展開されている。

…人間というのは一律なものだ。たいていの者は、大部分の時間を生きるために使ってしまう。そして、わずかにのこった自由な時間があると、かえって落ち着かず、あらゆる手段をつくして、それを振り捨てようとするのだ。

僕は自分にこう言いかねない。
「お前はばかだ!地上では見つからないものを探している。」

人間の一生は夢に過ぎない。僕は自分自身の内部へ引きこもって、そこに一つの世界を見つけ出す。僕は夢を見ながら、その世界の奥へと微笑みかける。自分のくだらない仕事や、欲情にまで、麗々しい名前をつけて、それを人類の幸福のための大事業だと押し売りする_それができるようなやつは仕合せだ!

だが謙虚な心で、こうしたこと全てがどういう意味をもっているかを知っている人がいる。その人は多くを語らず、自分の世界を自分の内部から作り出し、幸福だ。いくら狭い境遇にいても、胸の中にはいつも自由の楽しさを持ち続けている。いつでも好きな時に、この牢獄を離れることが出来るという自由の精神を持っている。

ウェルテルがヒロインであるロッテに出会ってからのことは、ここには書かない。ただ、旅と死が同一の概念で描かれる瞬間が、そのまま19世紀に引き伸ばされてロマン派を構築した証左と、モーツァルトによる”時間の芸術”の体現がまったくの同時代に起こったことであったことだけは確認しておきたい。

1773年、モーツァルトは6曲の弦楽四重奏曲、有名なト短調交響曲 K.183、そして初めてのジャンルへの試みとして画期的なピアノ協奏曲 K.175と弦楽五重奏曲 K.174を書いた。翌1774年、モーツァルトは歌劇「偽の女庭師」の初演のためにミュンヘンに旅立った。

「ウェルテル」が出版され、瞬く間にセンセーションを巻き起こした1774年の末、これも新たな時代を代表する主君マクシミリアン3世ヨーゼフの統治するミュンヘンで、モーツァルトの「偽の女庭師」は初演された。

「心の中に聞こえる 何か…音 甘い響き… 何という充足 これに勝る喜びはない 嬉しさに気を失いそうだ!!」

のちにパパゲーノに姿を変えることになるアキーゼ市長、狂気の出現、その向こうに続く果てしない時間。それがゲーテに届くのはまだ先のことである。

年が変わり1775年、歌劇の再演のためにまだミュンヘンに滞在していたモーツァルトは、今度も初めてのジャンルとなるピアノソナタの作曲依頼を受け、溢れる創作意欲に任せて6曲のピアノソナタ を一息に書き上げた。文学におけるゲーテと並ぶ、音楽における新時代の象徴はそのように誕生した。

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’18年6月7日(木) & 8日(金)
「W.A.モーツァルト」
ピアノ:松本和将
〔第一夜〕6/7(木) 第1~3番
http://www.cafe-montage.com/prg/180607.html
〔第二夜〕6/8(金) 第4~6番
http://www.cafe-montage.com/prg/180608.html