R.シュトラウス、加速する世紀末

ハンス・フォン・ビューローが最初にピアノを習ったのは、クララ・シューマンの父フリードリヒ・ヴィークであった。後にフランツ・リストに見いだされ、その娘コジマと結婚するが、その後色々あって…ブラームスの親友となった。

リヒャルト・シュトラウスの父フランツは、ワーグナー作品の上演時にはワーグナー本人やビューローに悪態を付くものの、その過酷なパートにおける重要な役割はしっかりこなすので、ビューローは彼のことを「ホルンのヨアヒム」と称えるなど、その信頼はとても厚かった。

フランツはミュンヘンのプショールビール(現ハッカー・プショール)の令嬢と結婚した。やがて生まれたリヒャルト・シュトラウスは幼少のころから父の参加するオーケストラやオペラの公演に親しみ、7歳の時には作曲を始めていて、13歳の時に和声学と六重奏曲で有名なテュイレと兄弟同然の親友となった。

まだ17歳であったリヒャルト・シュトラウスが書いた管楽器のためのセレナーデをビューローが賞賛して頻繁に演奏したことで、彼の作曲家としての名声は一躍広まった。シュトラウスはメンデルスゾーン-シューマン-ショパンからブラームスに至るロマン派を引き継ぐ存在であるとビューローは確信していた。

21歳のリヒャルト・シュトラウスは少ない報酬ながら、ビューローの誘いでマイニンゲンの次席指揮者となり、そこでブラームスとアレクサンダー・リッターに会った。尊敬するブラームスには誉められたものの、ブラームスは若者に対して助言を与えてしまう人で、その時もやはりそうなってしまった。

リヒャルト・シュトラウスはブラームスの助言をヴォルフほどには悪く受け取らなかったけれど、同時期に知り合ったアレクサンダー・リッターに与えられた鼓舞に対して、より惹きつけられた。リッターは「ブラームスがやり尽くした方面にはもう未来がない。ワーグナー、そしてリストに目を向けなければ」と言った。

リッターに出会った翌年、フランツ・リストが死んでロマン派の嵐は止み、時代は世紀末の黄昏へと移り変わった。その翌年リヒャルト・シュトラウスはリッターから鼓舞されるまま、ワーグナーの応接間の奥でメンデルスゾーンが大笑いしているような交響詩「ドン・ファン」を書いた。

ロマン派の神秘的な時間の流れと、実際の物事のスピードの間に巨大な齟齬が生まれる中で、情報の極端な圧縮が避けられない問題となったときに、リヒャルト・シュトラウスの生み出した作品は一つの啓示となって、ヨーロッパの都市生活に降りそそいだ。

リヒャルト・シュトラウスのヴァイオリンソナタはロマン派の巨人達、誰よりもショパンの音楽をコラージュして加速させることで、リストやワーグナーの感情さえも遥か置き去りにした「ドン・ファン」期に書かれた傑作である。最後にブラームスの雨を降らせて、この戯曲作品のような室内交響詩は幕を閉じる。

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2018年9月11日(火) 20:00開演
「R.シュトラウス」
ヴァイオリン: 直江智沙子
ピアノ: 松尾久美
http://www.cafe-montage.com/prg/180911.html