早すぎたサンサーンス 遅すぎた世紀末

1859年、パブロ・サラサーテがサンサーンスを訪問した。

神童として名を馳せ、2年前にパリ音楽院を首席で卒業してソリストとしてすでに有名になっていた15歳のサラサーテは、24歳の作曲家に向かって何か自分のために書いて欲しいといった。サンサーンスはその場で快諾すると同時に、その作品がイ短調の小さな協奏曲になるだろうと15歳のヴァイオリニストに言った。 “早すぎたサンサーンス 遅すぎた世紀末” の続きを読む

古楽の精神 サンサーンスとラモー

古楽はいつ生まれたか。

古楽とは、ある古い時代の音楽一般の呼称ではない。
作品が書かれたその時の演奏習慣や趣味をひもといて、ありのままのすがたとは言わないまでも、その作品が持つ精神を現在に蘇らせようとするときに初めて「古楽」は演奏される。 “古楽の精神 サンサーンスとラモー” の続きを読む

シェーンベルク 夢のすすめ

「二、三十年前も前には、詩人、ことに抒情詩人は…」と1946年にシェーンベルクは語りだした。

「単刀直入な言葉を使わずに…ぼかした表現法を用いるのがよい、とされていたものである。従って、事実や考えは夢から出てきたものように登場し、読者にただ夢見るように勧めるのである…しかし、このような考えはもう一般的ではない。」と言いながら、そうした考えが “シェーンベルク 夢のすすめ” の続きを読む

英雄交響曲、ハイドンの葬送音楽

ベートーヴェンの英雄交響曲の第2楽章が葬送行進曲となっていることについて、それが誰かに特別な人に対しての追悼なのか、もしくは何か重要な物事の終わりを意味しているのか、様々な説がある。

一つの交響曲がある英雄にしろ、ある死者にしろ、オマージュという形で書かれているとすれば、そのドラマを知りたいと思った。

交響曲というひとつのジャンルのみならず、音楽で表現される世界の全てを変えてしまったといわれる英雄交響曲となれば、 “英雄交響曲、ハイドンの葬送音楽” の続きを読む

モーツァルト追悼 失われた遺作

ホムンクルス:
このやさしい水の中では、何を照らし出そうとも、何から何までが実に魅力がある。

タレス:
…あれは、プロメテウスにおびき出されたホムンクルス…やむにやまれぬ憧れを示す兆候なのです。あ、燃え上がった。光って、ああ、もう溶け始めた…。

ヘレナ:
…私はひどく遠方にいるような、またひどく近くにいるような気がしますけれど、それでも「ここにいます、ここに」といわずにはいられません。…一生が終わってしまったような、けれどもこれから始まるような気がします。

ファウスト:
…運命を黙ってうけていましょう。「在る」ということは義務です。よしそれが瞬時の事であろうとも。

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明日、12月5日はモーツァルトの命日。
かねてから書きたい、書かなければいけない…とずっと思っていたことをようやく書きます。
でも、よほどのモーツァルト好きにしか読んでもらえないに決まってる!と思われる内容に終始します。ごめんなさい。

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悲愴ソナタ バガテルする晩年

ブラウン男爵が、ベートーヴェンの前に立ちはだかっていた。

ブラウン男爵は絹産業で財を成し、オーストリア随一の富豪として宮廷で重宝され、1794年にブルク劇場とケルントナートーア劇場の支配人となったあと、宮廷銀行の一員にもなっていた。

ブラウン男爵にはジョゼフィーネという奥さんがいた。
ブラウン男爵は奥さんがピアノが上手なのを自慢にしていた。
ベートーヴェンは、その奥さんに作品を献呈することで、何か便宜が図られるものと思っていたらしい。1799年、ベートーヴェンはブラウン男爵の奥さんに2つのピアノソナタ op.14を捧げた。しかし、ブラウン男爵は簡単には懐柔されなかった。

1800年のブルク劇場でのデビュー演奏会の大成功の後で徐々に作曲を進め、翌年にブラン男爵の奥さんにホルンソナタ op.17を献呈し、翌1802年、だんだんに耳が悪くなっていく中で、ようやく完成させた交響曲第2番を4月に初演したいと申請したが、ブラウン男爵は劇場の使用を許さなかった。

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ウィーンのブラームス チェロソナタ 第1番

ノッテボームというのは大変に偉い人で、ライプツィヒで学んでいたころメンデルスゾーンから見せてもらったベートーヴェンのスケッチ帳に魅了されて、ウィーンに引っ越しをして、まだ誰も手を付けていないベートーヴェンの自筆譜の研究に没頭した。

ベートーヴェンの作曲の過程については、弟子たちがなんとなく語った逸話よりほかに確かなものはなく、アメリカ人のセイヤーが初めての本格的な自伝を執筆していた時期、ノッテボームが始めた研究は今日の自筆譜研究の先駆となるものだった。

ノッテボームはサラミが好きで、いつも決まったお肉屋さんでサラミを切ってもらっていたのだが、ある日、お肉屋さんが渡してくれたサラミの包み紙に何か落書きがしてあるのに気がついた。よく見るとそれは五線譜に書かれた楽譜で、さらに目を凝らすと、どうやらそれはベートーヴェンの筆跡であると気が付いた。でもそれは、これまでに見たことのない作品であった。 “ウィーンのブラームス チェロソナタ 第1番” の続きを読む

マリア・ストゥアルト この世界から

1852年、ロベルト・シューマンの手には女王マリア・ストゥアルトの5つの詩があった。
それは年代順に女王が19歳、24歳、26歳、43歳、そして死の年の44歳に書かれたという5つの詩であった。

 

「マリア・ストゥアルトの5つの詩」op.135

1曲目 ト長調
フランスを離れる女王の詩 一度目の夫、フランス王との死別 “マリア・ストゥアルト この世界から” の続きを読む

これをサリエリに捧ぐ ‥ゆえに我あり

1795年、スロバキアの首都ブラティスラバにあるケグレヴィチ家の宮殿に令嬢のピアノ教師としてベートーヴェンは招かれた。

ケグレヴィチ家は、モーツァルトがウィーンに来る前からウィーンのブルク劇場の監督を任されていた名家で、重鎮サリエリとの繋がりも深かった。
ベートーヴェンはop.2のピアノソナタを書いた1795年に初めてサリエリに出会い、ケグレヴィチ家の令嬢バベッテとの関係はその後で恋愛に発展、長大なop.7のピアノソナタを捧げた。
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メンデルスゾーン、三角、四角の関係

フェリックス・メンデルスゾーンの姉、ファニーの夫となったヴィルヘルム・ヘンゼルには妹がいた。その名はルイーゼ・ヘンゼル。ロマン派の重要な証人となったベッティーナ・ブレンターノの兄、クレメンス・ブレンターノはルイーゼに強烈な片思いをした挙句、敗北した。

フェリックスのピアノの先生、ルードヴィヒ・ベルガーもルイーゼに生涯癒えることのない片思いの恋をした。ある日、友人であるルイーゼの兄がベルガーの元に、最近妹に燃えるような恋心をもって、やはり敗れた別の男、詩人ヴィルヘルム・ミュラーが書いた「美しき水車屋の娘」という詩を持ってきた。衝撃を受けたベルガーは即座に10の歌曲を書いた。 “メンデルスゾーン、三角、四角の関係” の続きを読む