ブラームスの晩年

ブラームスの晩年。
それはミュールフェルトに出会った後に書かれた、作品114のクラリネット三重奏と作品115のクラリネット五重奏から始まっているとされることが多い。しかし
、ブラームスの作品の成立を辿っていると、そこに一つの疑問が生まれてくる。

ブラームスはあまり作品を書かなかった時期が二つある、ひとつはロベルト・シューマンが投身自殺を図った1854年から1858年まで。つまりシューマン変奏曲とバラードを書き終えてからすぐに書き始めた交響曲が、苦難の末にピアノ協奏曲 第1番として完成を見る年までである。

そしてもうひとつは1887年から1890年まで、つまり交響曲 第4番から二重協奏曲、そしてヴァイオリンソナタ第3番にいたる一連の室内楽を書きあげた年から、弦楽五重奏 第2番書き上げた年まで。1887年、ブラームスとクララ・シューマンはお互いに若き日に交わした手紙を書き手に返し、その殆どを廃棄した。

「これが公表されることを恐れずにはいられない」
異母妹が書いた父フリードリヒ・ヴィークの伝記の中で自分が父に宛てて書いた手紙を勝手に使用されたことで、クララは自分の書いたものが全て後世に残ってしまうということに改めて恐怖を覚えた。破棄された手紙の内容は、今には伝わっていない。

「この作品でもうお別れ」
ブラームスは作品111の最終稿を出版社ジムロックに送るときにそう書き添えた、ということが判を押したように語られていて、この作品111を以ってブラームスの一つの時代の終わりだと信じている人が多いの、だがしかし、これは終わりではなく始まりの作品であったのだ。

ミュールフェルトとの出会いがブラームスの霊感を刺激した。
それはおそらく間違いではない。でも、それがいつの間にか、「ブラームスが一時失った霊感」の話に置き換えられているのが問題なのであって…よろしい、たとえブラームスに霊感を失った時期があったにしても、霊感を取り戻したのは作品111の完成においてなのだ。

考えて見たい。 ブラームスは明るい作品を書いて「憂鬱な曲」と言って送ったり、最後のピアノ作品を書いた時にも弟子に「出来立ての練習曲を弾いてあげよう」と言って晩年の傑作の非公式初演をしたり、作品に自信があればあるほど、そんな冗談を言っていた。「もう書かない」といったのも一度ではないのだ。

これまではオーケストラ作品を書いた後の副産物という意味合いもあった室内楽の中で、それだけに集中して長い時間をかけて書き上げた作品111、その最終稿をブラームスは「ピアノ連弾曲の第1楽章の終わりの部分の編曲にすぎない」と冗談としか思えないことを言ってから、先ほどの「もうお別れ」を告げている。

ブラームスがいつも冗談を言っていたわけではないかもしれないけれど、1890年に作品111を書いて、そこから作品114と作品115、そして最晩年の作品120までは休みなしに書かれている。そして、作品111の前には3年の休みがあるのだ。扉はどちらに向いて開いているのか、もう少し考えてみたい。

ベートーヴェンは後期の作品群を生み出す前、つまり大公トリオ、ヴァイオリンソナタ第10番、交響曲第7と第8のあと、ブラームスと同じく数年のブランクを設けていて、その間に若い日に書いた作品に手を加えたりしていた。ピアノ三重奏第3番 作品1の3を弦楽五重奏 作品104に書きかえたのもこの時期である。

ブラームスは作品111を書く前に、ピアノ三重奏曲 第1番 作品8をほぼ新たな作品として書きかえている。…こうしたことをいちいち上げていっても、結局ブラームスの作品の中に答えを見るほかはないように思う。

「もうお別れ」というのは、自分が今後書くことになる作品を見据えて、ブラームスが揺るぎのない自信を持って吐いた言葉ではなかったか。

作品111から作品120のソナタまで、ブラームスはオーケストラのための作品を書かず、それこそ本当の「お別れ」のときまで、霊感の命じるままに書き下ろした。

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2017年12月22日(金) 20:00開演
「J.ブラームス」 ― 没後120年 ―
ヴィオラ: 鈴木康浩
ピアノ: 桑生美千佳
http://www.cafe-montage.com/prg/171222.html