人間失格

これは本当に自分の身勝手な話で、文字通りに身勝手な話にすぎるので、なかなか周りの人にも相談することの出来ていない話です。

いま、私は人の道から離れたことをしようとしているのかもしれない。
そのような不安から逃れることが出来ずに悩んでいます。
その悩みはある一つの小さな疑問を持ったことから始まりました。

いま伝え聞いている限りでも、欧米諸国の国境封鎖ならびに各経済活動の自粛は苛烈を極めています。
彼らは小さな集団に分断されたと聞いています。

日本においても、欧州ほどの集中的な強い力によってではありませんが、やはり小さな集団が形成されつつあります。しかし、この小さな集団の中で私たちは、出来るだけこれまでと同じように、むしろこれまでより穏やかに生活した方がいいと心がけているように思います。

私はこの小さな集団の中で、大きな集団にいた時よりも多分、隣人にやさしくしたいと考えるようになりました。
お互いに礼儀正しく、やさしい気持ちで接したいと思うようになりました。

ところで、私はあまりたくさんのマスクを持っていないので、1枚1枚を出来るだけ大事に使おうと思って、2枚を1-2時間毎に交互に使用しています。非科学的な事かも知れませんが、片方を使っているときに片方を使わないということを小まめにすることで、長く使えるような気がしているからです。それは私が同じ非科学的な理由から、何本かの黒いズボンをしょっちゅう履き替えているという個人的な経験から、ついそうしてしまっているのだと思います。

先日スーパーで友人と出会いました。先月にもあったばかりでしたが、いま小さな集団の中でその友人と出会ったことを、私は先月以上に嬉しいと思いました。
そして、私はつい友人に話しかけたのですが、その時口元にさっきまでしていたマスクがないのに気が付きました。こまめに取り換える癖で外したのはいいものの、そのまま家を出てしまって、しまったと思いながら買い物をしていたところなのでした。

「元気?」とマスクをしていた友人は私に答えてくれました。
マスクでなくてもハンカチを口にしっかりあてればいい。友人に話しかけてから焦った私は、カバンの外ポケットにあるハンカチに手を伸ばしました。ところが、「元気?」と聞いてくれる友人の前で、私はそのハンカチを口にあてることが出来ませんでした。

マスクをしていた友人は、その口元のマスクを少し下にずらして、口を出してもう一度「元気?」と私にいいました。多分、マスクをしていない私に気をつかってくれたのです。私はますますハンカチを口にあてることが難しいと感じました。私にあわせてマスクをずらしてくれた友人のやさしさを裏切ることになると思ったのか、またはハンカチなんて大げさだと笑われるのがいやだったのか分かりませんが、私はマスクをずらしたまま話を続ける友人との会話をただ早く切り上げることに全神経を集中しました。その結果、嬉しいはずの友人とのほんの短い会話の内容を、まったく私は耳にいれていませんでした。

ハンカチを口にあてるだけのことが、あれほどに難しかったということに私はショックを受けました。
お互いに慣れていないというだけのことであれば、それだけのことかとも思ったのですが、ではいつになったら自分は慣れることが出来るだろうと考えてみた時に、私は本当に怖くなったのです。

分断された小さな集団は、それが小さいゆえに、その中の人は互いに親密になろうとします。少なくとも私はそう感じています。でも、小さい集団に分断すればするだけ、その集団がより親密さを増して、それがゆえにこの手のハンカチを口に当てさせないのだとすれば、どうなのだろう。感染拡大防止のために私たちが今はらっているこの大きな犠牲も、最後の最後で意味をなさないのではないか。これはもしかしたら深刻な問題なのではないか、と思うようになりました。
いまひとつの勇気だけで解決できる問題、と言われ続けて、さんざんに勇気を出して辿り着いたこの小さな集団の中で、ほっと浅い一息をついたのも束の間、私にはまだ勇気が必要なのです。

科学的にはわからないことばかりの中で、最後には自分が決めなければいけない。
自分の勇気の足りないこと、ハンカチを口にあてることも出来ないほどに自分の勇気の足りないことに、私は本当にがっかりしてしまいました。

これからは誰と話すときでもハンカチを口にあてて話そうと、私は自分に言い聞かせています。
でも、私は勇気がないので、ハンカチを手に持っていても、なかなか口にあてることが出来ないかも知れません。

人間失格
ハンカチを口にあてるのは失礼なことではないか、恥ずかしいことではないか、人の道からはずれているのではないかという思いが、よりによって一番必要な時に、ハンカチを私の口にあてさせないのではないかという不安から逃れることが出来ないのです。

ここで、ここまで読んでくれた皆さんにお願いがあります。本当に恥ずかしい話なのですが、私は自分ひとりで勇気を出して行動することができないのです。
私にひとこと、ハンカチを口にあててもいいと言っていただけないでしょうか。そうすれば私は勇気を出して、ハンカチを口にあてることが出来ると思います。
そしていずれはこんな私でも、友人に向かって、マスクを下げなくてもいいよ、というひとことを言ってあげることができるようになりたいと思っています。

どうか、お分かりいただけると嬉しいです。
いつかこのウィルスの問題がなくなればいい、それは出来るだけ早いほうがいいです。この苦しい日々が、1日でも早く終わってくれたらと願っています。


科学の急激な進歩があれば、大きな集団も急激に回復するでしょうか。非科学的な私は、1か月ほど我慢すればその進歩が訪れるのではないかという淡い期待を持っていました。でもそうではないという事実が、すでに目の前にあります。
もっともっと時間がかかるのだとすれば、科学が進歩する時までに、この問題を少しでも早く終わらせることに、非科学的な私のような人間でも少しでも協力することが出来ないかと考え続けています。

ウィルスの問題に対して自分に何かが出来るのとすれば、まずは小さな集団の中でのこの穏やかさに慣れて、そのあとで、今より少しでも大きな集団に移った時にも、同じく穏やかに生活ができるだろうか、それにはどのようにすればいいのかと考えることではないかと、私は信じるようになりました。

しかし、私は、さらに小さな集団へと移るでしょう。
苦しいですが、仕方がありません。
私にどうか一言、ハンカチを使っていいと、言っていただけないでしょうか。