ゲーテとシラーのいわゆる「バラードの年」といわれている1797年のこと。
21歳のアブラハム・メンデルスゾーンはみずからの銀行設立を決断してパリに向かった。その途中でイエナに立ち寄ったアブラハムは、友人ツェルターが彼に託していた歌曲集を詩人シラーに手渡した。
シラーがその楽譜をゲーテに見せたところ、ゲーテは興味をひかれたようであった。なぜなら、 “バラードの年、荘厳ミサの年” の続きを読む
消え去らない熱風
1845年に書かれたメンデルスゾーンのピアノ三重奏曲 第2番 作品66の冒頭は、ピアニッシモではじまる。
これが、メンデルゾーンがスコットランドで触れた”オシアン”の空気を表現しているのだ・・といわれても、いまいちピンとこないのはおそらく自分がこの作品を実演で聴いたことがないからかもしれない。
そもそも”オシアン”とは… ?
名前は、フェリックス
新海誠作品の地上波連続放映があった、今のタイミングでしか書けないようなことを書きたい。
映画『君の名は。』はボーイ・ミーツ・ガールのお話であると紹介されることが多いけど、主人公の二人が出会う物語ではない。
ではどのような話かというと、彼らは「すでにどこかで出会っていたかも知れない」という物語だ。
すれ違っただけでお互いを意識してしまった二人が、すでにどこかで出会っていたとすれば、それはいつどのようにしてだろう。その答えは、さっきまで見ていたはずの、でも思い出せない夢の中にある。
この映画をはじめに観たときに、そういえば自分にもそのようなことがあった、と思いあたったことがある。
シューマンの「感謝の歌」
ベートーヴェンが弦楽四重奏曲 第15番を書いたのは1825年のこと。
その「感謝の歌」と題された第4楽章がある。
その題名の横には
「リディア旋法で」
と書かれている。
“in der lydischen Tonart”
イ短調の旋律は主である”イ音”(a) ではなく光射す “ヘ音”(F) へと向かう。
ベートーヴェンが教会旋法を使用したのは、前年の1824年に初演された「荘厳ミサ曲」でのドリアン旋法がおそらく最初とみられる。
バッハやヘンデル作品の出版が活発になり始めてから、ベートーヴェンは果てのない古楽探索に明け暮れていたが、 “シューマンの「感謝の歌」” の続きを読む
交響曲「ザ・グレート」
1839年の3月21日に交響曲「ザ・グレート」はフェリックス・メンデルスゾーン指揮のゲヴァントハウス管弦楽団によって初演された。
パート譜はシューマンが前年にウィーンから送り付けてきたシューベルトのページの順番が不揃いなままの自筆譜から、ただでさえ多忙のメンデルスゾーンが暗号を解くように並べて書き起こした。
シューマンはメンデルスゾーンとは別に出版社ブライトコプフにあてて、 “交響曲「ザ・グレート」” の続きを読む
「シューマンを待ちながら」 第一章
サミュエル・ベケットはある小説を書こうとしていた。
それは、表現の「対象」も「手段」も「欲求」もなく、「表現の義務」のみが存在する小説。
登場人物は、そこで発生する何かを体現する。もしくはそこで何かを発生させる。もしくは、何かを叶えたいと願っている。
生きている人間は、そこで発生する何かのために、いつもそこにいるわけではない。そこで何かを発生させるためにいるのでもない。何かを叶えたいと強く願っているわけでもない。人間は存在し、何のためとは自ら知らずとも、そこにいる。
芸術がリアリズムを超え、その芸術を現実が超えてしまった戦後、「ゴドーを待ちながら」は書かれた。
“「シューマンを待ちながら」 第一章” の続きを読む「全ては終わった」
念仏は音楽か。
私はまだ音楽を聴くように、念仏の楽しみを味わったことがない。
でも、ある時まで自分の耳には念仏のように響いていた作品を、いつの間にか音楽として味わうようになったという経験はある。
例えば、ベートーヴェンの後期作品のいくつかは、それを聴けば一段階違う自分になれるとか何とかいう触れ込みで聴いてみたものの、そこに何か意味を見出し、その意味の中において自分は感銘を受けなければいけないのだと言い聞かせ、耳が受けている信号をなんとか解読しようと努力をした5分後にはひどい頭痛と眠気に襲われた。 “「全ては終わった」” の続きを読む
3つの、2つの、バースデープレゼント
ルイジ・ケルビーニというのはベートーヴェンより10歳年上のイタリアの作曲家。この9月14日に生誕260年を迎えるが、そのことはおそらく誰も話題にしていない。
ケルビーニは1816年、つまりベートーヴェンの後期といわれる時期がようやく始まった頃に「レクイエム」を書き、それは当代随一の傑作として高く評価された。1822年、パリ音楽院の学長になったケルビーニが翌年に新入生として入学してきたベルリオーズを叱り飛ばした話が、ベルリオーズの自伝に面白おかしく描かれている。
ロッシーニの登場によって作曲家としてはもう過去の人になっていたケルビーニではあったが、1836年になって急に6曲の弦楽四重奏曲を出版して、人々を驚かせた。その驚いた人々の中には、いつもながら早耳のフェリックス・メンデルスゾーンがいて、彼はすぐにそれらをロベルト・シューマンに見せて、 “3つの、2つの、バースデープレゼント” の続きを読む
フェリックスの遍歴時代
モーゼス・メンデルスゾーンがレッシングの思想を代弁する形で、長くほぼ禁書の扱いであったスピノザを復活させたことが、それまで確かにあったと思われた、時代の記憶の多くを消滅させた。スピノザを巡っての論争の末、詩人たちは、神と自然を歌う新たな道を探し始めた。 “フェリックスの遍歴時代” の続きを読む
メンデルスゾーン・バルトルディ
散策し、山に登るというロマン派の象徴を舞台にした「二百十日」という短編を漱石が書いている。温泉宿にて、かみ合う必要のない会話に終始し何の事件も起こらないまま、時間が来て山に登りはじめるものの、その日がちょうど二百十日の嵐にあたっていて、結局山に登ることが出来ず、また登ろうか…そんな話。
今日はフェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディの210年目の誕生日だという。
さまざまな音楽を聴く中で、人が拠り所としているものの大部分を作り上げた、この天才について、聴き手として何か言うべきことはないのか。