シェーンベルク 夢のすすめ

「二、三十年前も前には、詩人、ことに抒情詩人は…」と1946年にシェーンベルクは語りだした。

「単刀直入な言葉を使わずに…ぼかした表現法を用いるのがよい、とされていたものである。従って、事実や考えは夢から出てきたものように登場し、読者にただ夢見るように勧めるのである…しかし、このような考えはもう一般的ではない。」と言いながら、そうした考えがいかに広く流布して今も一般的であるかということについて、シェーンベルクは書き続けるのである。

「真の作曲家が作曲する理由は唯一 ―それが自分自身楽しいから― であると私は信じている」とシェーンベルクは言い始めた。
兵舎のパーティーのために作曲しているシェーンベルクを見て、同僚が『シェーンベルクは手紙を書くような速さで作曲をする』と驚いたとき、確かに「手紙を書くのは作曲するのと同じくらい時間がかかることが多い」とシェーンベルクは思ったそうだ。

「動機を組み合わせる作業はインスピレーションの働きによって自然発生的に行われるのではなく、音楽以外の概念、すなわち大脳反射の産物…」と言いながら、『室内交響曲』については「インスピレーションのおもむくまま作曲に着手したのは確かである」とシェーンベルクは回想し始める。しかしそう言ってしまう事で、「インスピレーションが完全な形のプレゼントを作曲家にしてくれることもあるのだ、という結論が引き出されかねない」とシェーンベルクは警戒し始める。

悲惨な第二次大戦が終わり、「芸術において最高の価値を生み出すものは、すべて頭脳とともに心をも示す」と断言するシェーンベルクは、一方ではバルザックの『セラフィータ』の中に出てくる、首が短く「心に頭が牛耳られている人間」のようにみられやすい自分を意識しながらも、自分の大脳反射の速度を惜しげもなく開陳して、それでも心のおもむくままに『室内交響曲』の作曲を始めたころのことを、かつて見た夢のように懐かしんでいる。

何のために作曲するのか。
かつて大交響曲が抱いた大空の断片と、それを啄んでいく鳥たちの声が絶えずせめぎ合っているシェーンベルクの『室内交響曲』を聴いている。
世界を変えた男が一生問われ続けた、その答えを探してまだそのあたりをさまよっているようだ。

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2019年12月9日(月) 20:00開演
「A.シェーンベルク」
ピアノ: 松本望
フルート: 瀬尾和紀
クラリネット: 小谷口直子
ヴァイオリン: 瀬﨑明日香
ヴィオラ: 小峰航一
チェロ: 上森祥平
https://www.cafe-montage.com/symphony/191209.html

幻想交響曲 バッハとクープランの復活

それは作ろうと思って作れる音楽ではない。

エクトル・ベルリオーズは10歳になって初めて学校に行き、でもすぐにやめさせられて、そこからは父ひとりに教育された。毎日、ヴェルギリウスやホラティウスの訳の分からない詩句を朗唱させられ、幼少にしてラテン語文学からの逃避が人生の第一目的となり、12歳で運命的な初恋をした。物置で見つけたフラジオレットを吹きならしてラテン語からの逃避を図っていたベルリオーズは、それをうるさがった父からフルートとドヴィエンヌ(パリ音楽院のフルート教授)の教則本を買い与えられ、ますます逃避活動に熱をあげてドルーエ(当代随一のフルーティスト)の協奏曲を演奏するまでになった。
アンベールという音楽の先生のもとで歌唱の勉強も始めた。 “幻想交響曲 バッハとクープランの復活” の続きを読む

英雄交響曲、ハイドンの葬送音楽

ベートーヴェンの英雄交響曲の第2楽章が葬送行進曲となっていることについて、それが誰かに特別な人に対しての追悼なのか、もしくは何か重要な物事の終わりを意味しているのか、様々な説がある。

一つの交響曲がある英雄にしろ、ある死者にしろ、オマージュという形で書かれているとすれば、そのドラマを知りたいと思った。

交響曲というひとつのジャンルのみならず、音楽で表現される世界の全てを変えてしまったといわれる英雄交響曲となれば、そのドラマはひとつではないだろうし、いくら尽くしても見通すことなどできないに違いない…、でも少しずつでも、辿りたいと思うのだ。

まずは地道に楽譜を見ていくところから。
英雄交響曲を書くにあたって、ベートーヴェンが何か参考にした作品があるとすれば…、まずはやっぱりモーツァルトだろうか。

モーツァルトが書いた最後の3つの交響曲の中の1曲目が、英雄交響曲と同じ変ホ長調だ。
早速モーツァルトの交響曲第39番(1788年作曲)の第1楽章 第1主題のモチーフと、同じくトレモロを伴った英雄交響曲の主題を比較してみる。似てる‥と思って調べてみると、やはりこれは似ているということになっているらしい。それは知らなかった。

 

この交響曲はモーツァルトの生前に演奏された記録はないけれど、死後の1797年に出版されているのでベートーヴェンは聴いたことが無くてもまず譜面をみただろうし、見れば全て了解されたに違いない。でもこれだけで、英雄交響曲がモーツァルトの最後の交響曲に触発されて書かれたものだとまで言ってしまうのは、さすがに無理がある気がする。
少しずつということだし、これから調べればもっと色々と出てくるだろうと思う。

モーツァルトの最後の交響曲を見たのだから、次はハイドンだ。
ハイドンの最後の交響曲と言われるものは、1794年のロンドン遠征に向けて書かれた6曲セットで、それは以下のようなものである。

交響曲第99番 変ホ長調
交響曲第100番 ト長調「軍隊」
交響曲第101番 ニ長調「時計」
交響曲第102番 変ロ長調
交響曲第103番 変ホ長調「太鼓連打」
交響曲第104番 ニ長調「ロンドン」

変ホ長調が二つある!!
と思ってまず最初の99番の交響曲から聴き始めた。知らない曲だったけれど、さすが傑作揃いといわれるセットのはじめに来る作品だ…とワクワクしながら聴くうちに、第1楽章の展開部に入ったところに木管の掛け合いが出てきて、そこには確かに英雄交響曲が聴こえる!

交響曲第99番‥、どういう作品なのだろうと調べてみると、この作品は第2楽章が、ハイドンにとってかけがえのない友人のために書かれた追悼の音楽というのである。
第2楽章が葬送…、まさに英雄交響曲と同じではないか。

1793年、ベートーヴェンはまさにこの作品が書かれている時にハイドンのところにいたのだから、その存在を知っていないはずはないし、作品の込められたハイドンの気持ちについても聞かされていたかもしれない。
しかも!!
その時代に若きベートーヴェンがまさにこのハイドンの交響曲第99番を写譜したスケッチが実在するらしい‥、このつながりは深い!

ところで、ハイドンがこの追悼の楽章を捧げた友人とは誰の事だろう…、話はこの交響曲が作曲される4年前にさかのぼる。

ハイドンのエステルハージ奉公が終わりに差し掛かった1789年、ハイドンのもとにひとつの封筒が届いた。封筒の中にはハイドンのある交響曲のアダージョをピアノに編曲したから見て助言をして欲しいという手紙と、手書きの譜面が入っていた。

その封筒の送り主はマリア・ゲンツィンガー夫人といった。
ハイドンはまず、そのアダージョのピアノ編曲をゲンツィンガー夫人がスコアを見て書いたのか、もしくはオーケストラのパート譜を集めて書いたのかを問いただした上で、いずれにしても素晴らしく正確な編曲で、このまま出版社に渡して良いほどである。助言などとんでもない、私は貴女からそのようにお褒めいただくほどの者ではない…と、最大の敬意をはらった返信を書き、すぐにゲンツィンガー夫人に送った。

交響曲の総譜が印刷される習慣がなかった当時、35歳のゲンツィンガー夫人がおそらくパート譜を集めて編曲したピアノ版のアダージョを見て、59歳のハイドンの感激が大変なものであったらしい。
すぐに家族ぐるみの付き合いが始まり、ゲンツィンガー夫人はハイドンのほかの楽章も次々にピアノに編曲してハイドンに送った。ハイドンはそのたびに感激して返信を書いた。その後もゲンツィンガー夫人とハイドンの間には無数の手紙が交わされた。
1790年、すでに心の友といってそれ以上の存在はないほどになっていたゲンツィンガー夫人に、ハイドンが特別な感情を込めて作曲した変ホ長調のピアノソナタ第49番を捧げられた。
1791年、ロンドンにいたハイドンがモーツァルト死亡の報を聞き、「これからあと何100年たっても、あのような才能があらわれることはない」と書いたのも、ゲンツィンガー夫人にあてた手紙の中であった。

モーツァルトが死んだ翌1792年に、ハイドンはベートーヴェンを連れてウィーンに戻って来た。そして翌1793年、ハイドンが次のロンドン遠征に向けて交響曲を書いている最中、ゲンツィンガー夫人が死んだ。39歳の生涯であった。

ハイドンは交響曲第99番を書いていた。その変ホ長調の交響曲の中、まったく異質なト長調のアダージョを第2楽章として置いた。
このアダージョのピアノ譜を書いて見せてくれる人は、もうこの世にいないのだ… 追悼の音楽を書くハイドンの隣にはベートーヴェンがいた。

1803年、ハイドンはしばらく書かなかった弦楽四重奏を書こうと思いついた。
それは変ロ長調の第1楽章そしてニ短調の第2楽章という、やはり変わった構成を持っており、そのあとどうなるのか…というところでハイドンは筆を置いた。

結局、この弦楽四重奏曲がハイドンの人生最後の作品となった。
最後にハイドンは以下の言葉による、一つのカノン旋律を書いた。
Hin ist alle meine Kraft | alt und schwach bin ich
「我が力は全て消え失せた|私は年をとり、衰えたのだ」

もう作品を書くことはない、ベートーヴェンは師匠からそう聞かされてはいなかっただろうか。
1803年、ハイドンが書いた絶筆の中にあるフーガと、ベートーヴェンがその年から翌年にかけて書いた英雄交響曲の葬送行進曲中、もっとも劇的な展開を見せるフーガを並べて置くところで、このお話はひとまずおしまいにしなければいけない。


その後、ハイドンは作曲することなく、1809年5月31日に死んだ。
その後まもなく、ベートヴェンは英雄交響曲と同じ変ホ長調の弦楽四重奏曲を書き上げた。

ハイドン、そしてベートーヴェンの交響曲。
ドラマはまだまだ始まったばかりだ。

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2019年12月6日(金) 20:00開演
「F.J.ハイドン」
ピアノ: 松本望
フルート: 瀬尾和紀
ヴァイオリン: 瀬﨑明日香
ヴァイオリン: 野田明斗子
ヴィオラ: 小峰航一
チェロ: 上森祥平
https://www.cafe-montage.com/symphony/191206.html

 

19年12月7日(土) 20:00開演
「L.v.ベートーヴェン」
ピアノ: 菊地裕介
ヴァイオリン: 瀬﨑明日香
ヴィオラ: 小峰航一
チェロ: 上森祥平
https://www.cafe-montage.com/symphony/191207.html

モーツァルト追悼 失われた遺作

ホムンクルス:
このやさしい水の中では、何を照らし出そうとも、何から何までが実に魅力がある。

タレス:
…あれは、プロメテウスにおびき出されたホムンクルス…やむにやまれぬ憧れを示す兆候なのです。あ、燃え上がった。光って、ああ、もう溶け始めた…。

ヘレナ:
…私はひどく遠方にいるような、またひどく近くにいるような気がしますけれど、それでも「ここにいます、ここに」といわずにはいられません。…一生が終わってしまったような、けれどもこれから始まるような気がします。

ファウスト:
…運命を黙ってうけていましょう。「在る」ということは義務です。よしそれが瞬時の事であろうとも。

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明日、12月5日はモーツァルトの命日。
かねてから書きたい、書かなければいけない…とずっと思っていたことをようやく書きます。
でも、よほどのモーツァルト好きにしか読んでもらえないに決まってる!と思われる内容に終始します。ごめんなさい。

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悲愴ソナタ バガテルする晩年

ブラウン男爵が、ベートーヴェンの前に立ちはだかっていた。

ブラウン男爵は絹産業で財を成し、オーストリア随一の富豪として宮廷で重宝され、1794年にブルク劇場とケルントナートーア劇場の支配人となったあと、宮廷銀行の一員にもなっていた。

ブラウン男爵にはジョゼフィーネという奥さんがいた。
ブラウン男爵は奥さんがピアノが上手なのを自慢にしていた。
ベートーヴェンは、その奥さんに作品を献呈することで、何か便宜が図られるものと思っていたらしい。1799年、ベートーヴェンはブラウン男爵の奥さんに2つのピアノソナタ op.14を捧げた。しかし、ブラウン男爵は簡単には懐柔されなかった。

1800年のブルク劇場でのデビュー演奏会の大成功の後で徐々に作曲を進め、翌年にブラン男爵の奥さんにホルンソナタ op.17を献呈し、翌1802年、だんだんに耳が悪くなっていく中で、ようやく完成させた交響曲第2番を4月に初演したいと申請したが、ブラウン男爵は劇場の使用を許さなかった。

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ウィーンのブラームス チェロソナタ 第1番

ノッテボームというのは大変に偉い人で、ライプツィヒで学んでいたころメンデルスゾーンから見せてもらったベートーヴェンのスケッチ帳に魅了されて、ウィーンに引っ越しをして、まだ誰も手を付けていないベートーヴェンの自筆譜の研究に没頭した。

ベートーヴェンの作曲の過程については、弟子たちがなんとなく語った逸話よりほかに確かなものはなく、アメリカ人のセイヤーが初めての本格的な自伝を執筆していた時期、ノッテボームが始めた研究は今日の自筆譜研究の先駆となるものだった。

ノッテボームはサラミが好きで、いつも決まったお肉屋さんでサラミを切ってもらっていたのだが、ある日、お肉屋さんが渡してくれたサラミの包み紙に何か落書きがしてあるのに気がついた。よく見るとそれは五線譜に書かれた楽譜で、さらに目を凝らすと、どうやらそれはベートーヴェンの筆跡であると気が付いた。でもそれは、これまでに見たことのない作品であった。

ベートーヴェンの知られざる手稿譜の発見…!

ノッテボームは動揺を必死で隠してお肉屋さんを出て、まっさきに友人のもとへ走った。友人は震えるノッテボームが差し出したサラミの包み紙を見て、大笑いした。

ノッテボームから見せてもらったベートーヴェンの手稿譜の書き方をまねて、ベートーヴェン風の一節を五線譜に書き、ノッテボーム行きつけのお肉屋さんに「今度彼が来たらこれを使うように」と渡しておいたのだ、とその友人、ヨハネス・ブラームスは笑いながら白状した。

そのベートーヴェン風のブラームスの手稿譜はそれこそ大変な貴重品だけれど、ブラームスにはそれをプレゼントするだけの恩義をノッテボームから受けていた。

1862年、ウィーンを訪れたブラームスは、そのあとハンブルクに戻ってフィルハーモニーの合唱指揮の仕事に就くはずだったが、フィルハーモニーからその仕事は歌手のシュトックハウゼンに依頼するという知らせが来た。
ブラームスは腹を立てて、もうハンブルクには帰らないと決め、ウィーンに定住することになった。ウィーンでブラームスはノッテボームに出会い、瞬く間に彼らは親友になった。

ブラームスはクララ・シューマンから任されていた、ロベルト・シューマンの遺産を整理する中で見つけた数々の貴重な資料をノッテボームに提供し、ノッテボームは彼のベートーヴェンの研究を始め、貴重なバロック音楽の資料をブラームスに開陳した。ブラームスは見るもの全てを手書きで書き写した。

ブラームスがウィーンに移り住んだ初めに作曲したチェロソナタ 第1番がヘンデルの作風を手本の一つにしていることは、その前の年にピアノのための『ヘンデル変奏曲』を書いていたことにも恐らく関係していて、ブラームスは当時ヘンデル全集を刊行していたドイツ・ヘンデル協会の中心人物フリードリヒ・クリザンダーとも親しい友人であった。

ウィーンに住むことに決めたブラームスは、ひとまずウィーンのジングアカデミーの指揮者の職を得た。チェロソナタ 第1番はその仕事のお世話をしてくれた、ヨーゼフ・ゲンズバッハーに献呈することにした。

ゲンズバッハーは合唱の教育者として定評があったが、同時に優れたチェリストであった。ブラームスがチェロソナタを手に現われたところ、ゲンズバッハーは当然のごとくに「一緒に弾きたい」と言い始めた。

「僕の音が聴こえない」とゲンズバッハーはピアノを弾くブラームスに言った。ブラームスは「それは幸運なことで」と言って、さらに音量を上げた。

ゲンズバッハーとブラームスの友情はその後も長く続き、ゲンズバッハーのつてでブラームスはシューベルトの未発表作品をたくさん見せてもらった。ブラームスはウィーンで着々とコレクションを増やしていった。

ところで、ゲンズバッハーと一緒に演奏した際、チェロソナタはメヌエットで終了する三楽章形式であったという。それなら、例えばヘンデルの同じホ短調のハレソナタ(フルートと通奏低音のための)と重なる部分が出てくる。そう思って聞いてみると、確かに重なって聴こえて来るから不思議だ。

そのあと、ヘンデルのハレソナタの緩徐楽章が、恐らくヘンデル本人による作曲ではないというのは、旧友クリザンダーがブラームスに伝えたのであろうか。3年後、ブラームスはもとの緩徐楽章を省いて、新たなフィナーレが書いてop.38として出版に回した。その最終楽章はヘンデルではなくバッハの『フーガの技法』を主題に採用しているのはどうしたわけだろうか。

『フーガの技法』が展開される中、一瞬だけ、ベートーヴェンのハ長調ピアノソナタの断片がピアノで奏されることにも、この最終楽章の成立を考えるときに重要な点が含まれていると思うけれど、いまはここまでしか書けない…。

以下、ベートーヴェンのピアノソナタ op.2-3の第1楽章から

 

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2019年11月26日(火) 20:00開演
「ブラームス&シューマン」
チェロ: 金子鈴太郎
ピアノ: 仲道祐子
https://www.cafe-montage.com/prg/191126.html

マリア・ストゥアルト この世界から

1852年、ロベルト・シューマンの手には女王マリア・ストゥアルトの5つの詩があった。
それは年代順に女王が19歳、24歳、26歳、43歳、そして死の年の44歳に書かれたという5つの詩であった。

 

「マリア・ストゥアルトの5つの詩」op.135

1曲目 ト長調
フランスを離れる女王の詩 一度目の夫、フランス王との死別

2曲目 ト長調
スコットランドでの二度目の不幸な結婚 祝福されない長男の誕生

3曲目 ハ長調
夫の暗殺に関わり、スコットランドを追われたマリアが、逃亡先からイングランド女王エリザベスに書いた手紙

4曲目 ホ短調
エリザベス女王に対する謀反の嫌疑 死を覚悟するマリア

5曲目 ホ短調
マリアの最後の祈り

 

これをシューマンの人生に重ねてみた

1曲目 シューマン19歳
ベートヴェンとシューベルトの死後 ライプツィヒ大学を去りヴィークに師事 まもなく最初のピアノ作品を作曲

2曲目 シューマン24歳
天才少女クララとの運命の糸が絡まりはじめる 兄が死去 初めての憂鬱症ハンブルクでブラームス誕生

3曲目 シューマン26歳
クララと親密な中になるも クララの父ヴィークはシューマンを出入り禁止にする 以後、シューマンはクララにあてて大量の手紙を書き続けることになる

4曲目 シューマン43歳
デュッセルドルフでの指揮者としての活動に行き詰る 大変な憂鬱症 歌曲集「マリア・ストゥアルトの5つの詩」を書き始める

5曲目 シューマン44歳
ブラームスが登場する 翌年にライン川に投身


3曲目がクララの調であるハ長調 C-durで書かれていることや、4曲目と5曲目が歌曲集『詩人の恋』の「
ラインの聖なる流れに」と同じホ短調で書かれていることなど、この短い曲集に張り巡らされたシューマンの意図は、彼の神経のように恐ろしいほどに緻密だ。

おそらく彼の人生の全てはその通りに運び、この作品はシューマンにとって最後の歌曲作品となった。

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2019年11月19日(火) 20:00開演
「マリア・ストゥアルトの詩」
メゾソプラノ: 三井ツヤ子
ピアノ: 久保千尋

https://www.cafe-montage.com/prg/191119.html

これをサリエリに捧ぐ ‥ゆえに我あり

1795年、スロバキアの首都ブラティスラバにあるケグレヴィチ家の宮殿に令嬢のピアノ教師としてベートーヴェンは招かれた。

ケグレヴィチ家は、モーツァルトがウィーンに来る前からウィーンのブルク劇場の監督を任されていた名家で、重鎮サリエリとの繋がりも深かった。
ベートーヴェンはop.2のピアノソナタを書いた1795年に初めてサリエリに出会い、ケグレヴィチ家の令嬢バベッテとの関係はその後で恋愛に発展、長大なop.7のピアノソナタを捧げた。

そのケグレヴィチ宮殿は、今では「ベートーヴェン・アパート」という宿屋になっている。

バベッテの父、カールはケルントナートーア劇場(ウィーン国立歌劇場の前身)の監督であった。その劇場で1799年にサリエリの歌劇ファルスタッフが初演され、ベートーヴェンはその歌劇のアリアによる変奏曲を作りバベッテに捧げた。翌年、ベートーヴェンはブルク劇場に華々しくデビューすることになる。

ブルク劇場で演奏されたピアノ協奏曲第1番は、令嬢バベッテにおそらくは結婚祝いとして捧げられた。作曲家・演奏家として確固たる地位を手に入れたベートーヴェンは、翌年には歌劇の分野に目を向け、正式にサリエリに弟子入りをしてイタリア語歌劇の勉強を始めた。

ハイドンに連れられてウィーンにやって来てからの数年、パトロンの貴族達の間での高い評価を足がかりに、ウィーンという大音楽都市の檜舞台の中心に華々しく登場するにあたって、重要となったものはウィーンの重鎮サリエリとの関係と、もう一つは「悲愴」ソナタ op.13の大評判であった。

ここで、ベートーヴェンがサリエリに捧げた唯一の作品、3つのヴァイオリンソナタ op.12について、なぜこれがサリエリの為の作品なのか‥ということを知りたいと思い、でも、まったく情報がないので行き詰っていた。

まずは作品の性格から‥ ベートーヴェンがサリエリの作品を最初に聴いたのは、選帝侯が招聘したサリエリの歌劇「アルミーダ」であった。その序曲の中に、ベートーヴェンが第1番のソナタの冒頭に使ったようなユニゾンの楽想が確かにある!

「私はオペラを作曲するべきではございませんでしょうか…?」
そんなアピールを滲ませて、ベートーヴェンがサリエリ師匠に捧げるソナタを作曲したのだと想像してみれば、第2番ソナタの冒頭にも、人を舞台に誘う優雅な調子が含まれているように思えてくる。

そして、これまでの3曲セットの作品(op.1、op.2、op.9)には必ずあった短調の作品が含まれていないことも、何かサリエリ師匠と関係があるのだろうか。
第1番 ニ長調、第2番 イ長調‥と来れば、次はハ短調かと思いきや、第3番はその裏返しの変ホ長調で、そこからハ短調に頻繁に訪れるという手の込んだことをしている。

D-dur、A-dur、Es-dur‥アントニオ・サリエリに捧ぐ‥

??もしかして

初版の楽譜のタイトルページを見てみるとそこには確かにこう書いてある。

composta, e Dedicate al sigr Antonio Salieri



D – A – Es . . . アントニオ・サリエリに捧ぐ


これは本当だろうか。誰か賛成してくれるだろうか。そして、サリエリ師匠は果たして喜んでくれたのだろうか。

ベートーヴェンの快進撃は、このあとまだまだ続く。

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19年11月14日(木) 20:00開演
「L.v.ベートーヴェン」 – ヴァイオリンソナタ vol.1 –
ヴァイオリン: 上里はな子
ピアノ: 松本和将

https://www.cafe-montage.com/prg/191114.html

メンデルスゾーン、三角、四角の関係

フェリックス・メンデルスゾーンの姉、ファニーの夫となったヴィルヘルム・ヘンゼルには妹がいた。その名はルイーゼ・ヘンゼル。ロマン派の重要な証人となったベッティーナ・ブレンターノの兄、クレメンス・ブレンターノはルイーゼに強烈な片思いをした挙句、敗北した。

フェリックスのピアノの先生、ルードヴィヒ・ベルガーもルイーゼに生涯癒えることのない片思いの恋をした。ある日、友人であるルイーゼの兄がベルガーの元に、最近妹に燃えるような恋心をもって、やはり敗れた別の男、詩人ヴィルヘルム・ミュラーが書いた「美しき水車屋の娘」という詩を持ってきた。衝撃を受けたベルガーは即座に10の歌曲を書いた。

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室内交響曲 – Interior of the Sky

「十字をお切りになって、せめて一度でもいいからお祈りになって」
「ああ、いいとも、何度でもきみのいいだけ祈るよ!素直な心で祈るよ、ソーニャ、素直な心で…」
彼は、しかし、なにか別のことを言いたかった。

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ラスコーリニコフがその言葉を最後まで言うことはなかった。
そのことによって『罪と罰』の作中のみならず、これまでに書かれた物語の最も美しい一場面が生れた。世界の終わりの夢を見た、そのあと、病の癒えた二人が無言のまま新しい物語へと歩を進める、あの最後の数ページが。

彼らは最後の最後で出会い、夜を迎え、永遠になった。

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