ヘルマン・ヘッセの晩年の作に「ガラス玉演戯」という長編がある。
ガラス玉演技というのは、あらゆる学問や芸術の神髄を駆使して行われるという、ヘッセの作り上げた架空の演戯のこと。その演戯が実際にどのようなものかということについては、最後まで触れられることはない。
ヘルマン・ヘッセの古典音楽に対する愛着と造詣の深い事は、その「ガラス玉演戯」のなかでも如何なくしめされていて、むしろ音楽について語るために、「ガラス玉演戯」という創作をしたのではないかと思われるところがある。そして音楽について語ることを通じて、人間の精神の復興を祈るのである。
ヘッセは書く。「ガラス玉演戯はまず第一に音楽することである。」
「われわれは、古典音楽をわれわれの文化の精粋であり、総合であると考える。それはわれわれの文化の最も明らかな独特の姿態であり、発現である。…なぜなら古典的な文化の姿態はすべて結局、道徳を、人間の行動を一つの姿態に凝縮させて作った模範を、意味するからである。」
「一五〇〇年から一八〇〇年のあいだに、さまざまな音楽が作られ、様式と表現手段は多種多様をきわめているが、精神は、というよりはむしろ道徳は、いかなる場合にも同一である。この人間的な態度は常に、同じ種類の人生認識にもとづき、偶然を同じように超脱しようと努める。」
「古典音楽の態度は、すなわち人間性の悲劇を知り、人間の運命を肯定し、勇敢であり、明朗であることを意味する!それがヘンデルやクープランのメヌエットの優雅さであるにせよ、多くのイタリア人やモーツァルトに見られるような、易しい態度にまで昇華した感性であるにせよ、バッハに見られるような、静かな沈着な死の覚悟であるにせよ、常にその中には、抵抗心、死を恐れぬ勇気、騎士道などがあり、超人間的な笑いと、死ぬことのない明朗さとが鳴りひびいている。」
「音楽は、それから抽出された純粋に精神的な躍動や音型法の展開からばかり成り立ってはいない。…まず第一に、感覚的なものや、息の流出や、拍子や、色どりや、摩擦や、刺激を喜ぶことから成立した。そういうものは声部がまざりあい、楽器が合奏されることによって生じるのである。」
人が何らかの感覚を刺激されて、それを「美しい」と認識する。その感覚には絶えず反省すべき欺瞞が含まれている。そして、その反省から次の高みへ移ろうと努力することが、芸術と人間の精神との関わりの始まりである。その関わりには、決して終わりというものが無い。
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2014年10月8日(水) 20:00開演
「古典的な二重奏」
ヴァイオリン:田村安祐美
ヴィオラ:小峰航一
http://www.cafe-montage.com/prg/141008.html