フランク、ヴァイオリンソナタ

フランクのヴァイオリンソナタがどのようにして発生した音楽であったか、これまで考えたことがなかった。考えようがないとも思っていた。しかし、フランクの全作品中でも際立って古典的な佇まいを示しているこのソナタの第4楽章に、突然別の音楽が重なって聴こえたことでそうも言っていられなくなった。

ベートーヴェンのピアノソナタ ニ短調 作品31-2「テンペスト」の第3楽章、同じ動機が繰り返される無窮動の動きがセザール・フランクの天国的なカノンの中に重なって聴こえた瞬間、時間が急速に巻き戻されて、第2楽章アレグロ、そのニ短調の風景が目の前に広がってそこにもテンペストが吹き荒れているのを見た。

このヴァイオリンソナタが書かれたのは、フランツ・リストが死んだ1886年のこと。その25年前、フランクはドイツで自分の作品を紹介してくれたハンス・フォン・ビューローにあてた手紙の中で、ヴァイオリンソナタをその夏に書いて、それをビューロー夫人に捧げたいと言っていた。

セザール・フランクは若くして独自の完成の域にあった作曲家であった。華やかな舞台から早々に退場して教会のオルガニストとして生活している間も、この早すぎた天才が自分の書いた作品を忘れることがなかったことは、21歳の時に作品1として出版されたピアノ三重奏曲の中にもはっきりと示されている。

ハンス・フォン・ビューローはまずツェルニーに、続いてフランツ・リストに学んだ大音楽家でベートーヴェンの演奏に一家言を持ち、それを聴衆と分かち合うために満席の大ホールにカギをかけて、第九交響曲を1回のみならず2回続けて演奏し、ブラームスをして「ベートーヴェン、第18交響曲…」と言わせたその人だ。

ともかく、フランクが初めに書こうとしたのはその大家ビューローに捧げるのに相応しいものであったはずで、それをフランクがすっかり忘れたはずはなく、しかしビューロー夫人がいつのまにかワーグナー夫人になってしまったこととて、行き場のない思いではあったかも知れない。

1883年、イザイがパリに移り住んできた。当時まだ25歳、稀代の大ヴァイオリニストはすぐに国民音楽協会の常連となり、サンサーンスやフォーレ、そしてフランクとも親交を深めた。1886年の夏、リストが死に、フランクはヴァイオリンソナタを書き上げ、それをイザイの結婚に捧げることとした。

フランクはイザイの結婚式には出席せず、手紙を書いた。「親愛なる奥様へ 貴女はこのソナタをご主人に献呈して欲しいとおっしゃいましたね。私は、他の誰にも約束はしていなかった故、いま喜んでそのようにさせていただきます。かの大芸術家への支持という名のもとに。」

セザール・フランク:ヴァイオリンソナタ
同じイ長調で書かれたベートーヴェンのピアノソナタ第28番がその雛形であるところのその冒頭、ゆったりとした3/8旋律の繰り返し… そして同じニ短調で書かれたテンペスト第三楽章の提示部最後のトレモロが浮かび上がって始まる第二楽章…

…平行調である嬰ヘ短調に辿り着くまでの道程が描かれる第三楽章。レチタティーヴォは、バッハの平均律第1巻ー嬰ヘ短調フーガに現れるトリルを纏って進行し、ファンタジアにおいて最高潮に達した後でいよいよ嬰ヘ短調に達した瞬間、なんとジュピターの音形が現れるのだ…

第三楽章はここから第四楽章に向けて進行し、lento et mestoー ベートーヴェンのイ長調ソナタの終楽章の手前で曲冒頭の旋律が突然に出現して消えてゆくあの瞬間がトレースされて終結。そうして静まり返った中、ベートーヴェンの凱歌に代わって現れるのが、あの天国的なカノンなのだ。

ウィーン古典派のメタモルフォーゼとしてのロマン派芸術をこのように表現したのはセザール・フランクただ一人ではなかっただろうか。テンペスト終楽章の無窮動があのような姿に形を変えると他の誰が想像しただろう。その後日談を、私たちは例えば同じニ短調で書かれたフォーレのチェロソナタの中に聴くことが出来る。

セザール・フランクの芸術は、その前にも後にも果てしなく広がっていて、全てを見渡すことなどはとても出来そうにない。しかし、その広がりを感じるということ自体が、フランクの芸術を享受することそのものである。

…そうではないだろうか。