終りの音楽

永遠に続く 永遠に終わらない いつか終わる
絵画は平面 もしくは平面に近いものに固定され 永遠にそこにあって いつか終わる
過去は どこに固定されているのか 永遠に保存されて いつか終わる
不滅は いつか死に絶える

ある時 例えば髪の毛を洗った後 タオルで頭を無茶苦茶にしている最中に すべての疑問が一つの問いに集約されて その問題が解けた と確信することがある。しかし、自分の人生がそこで終わってしまうことに対する抵抗と怠惰を覚えて やがてすべてを忘れてしまう。

起きながらに夢を見ることがあるかといえば そんなことはしょっちゅうある。目を開きながら見る夢の中でひらめいた良い考えを そのまま発話して目の前の人に伝えようとすると とんでもないことになる。そのような言葉 人に知られずに消えてゆく言葉を 今は書き綴っておきたいと思った。

サミュエル・ベケットはピアノを弾いた。主にハイドンからシューベルトまでのウィーン古典、まれにサティやラヴェル、バルトークの音符を追うこともあった。イヴ・ナットやシュナーベルのレコードをよく聴き、モニク・アースとアンドール・フォルデシュと親しく、従弟のジョン・ベケットは作曲家・指揮者として活躍していた。

サミュエル・ベケットは絵画については音楽よりも多くを語っていた。ナチスが台頭する中、ドレスデンでヴィル・グローマンの知遇を得て、ロマン派から展示の禁じられていた近現代の前衛までを隈なく辿り、パリではデュシャンとチェスをしたり、親友ジャコメッティには『ゴドーを待ちながら』の木を作ってもらっていた。

サミュエル・ベケットは『神曲』と『失楽園』、シェイクスピアにラブレー、スウィフトにスターン、ディドロ、バルザックからプルースト、ゲーテからトーマス・マンに至るまで、あらゆる古典文学に精通し、パリで晩年のジェイムズ・ジョイスに出会った。
ベケットの目の前には、すべてが揃っていた。

「何も考える前に、私たちの前にはほとんどすべてがすでに用意されている。私たちはみなデュシャンだ、と私は生徒に言った。短六度の和音も、長短七度の和音も、スタインウェイもヴァイオリンも、私たちが発明する必要はない。車はもうここにある。無いのは燃料だけだ。」とモートン・フェルドマンは言った。

全てはレディメイド。「あとは運転をするだけだ。」フェルドマンは続ける。「私はプルーストのファンだ。でも、読むのはなかなか難しい。少しずつ口にふくむくらいなら簡単だ。ベートーヴェンも弾くのではなく、ハンス・フォン・ビューローの言うように、口ずさむのであれば簡単だ。」

「ブーレーズが成功したのは、彼が聴衆に代わって音楽を聴いてくれるからだ。25ドルで席についてリラックスすれば、音楽を聴くのは彼がすべてやってくれる。ベートーヴェンの作品101のソナタは全くいかれている。これはフーガの主題なんてものじゃない」フェルドマンは口笛を吹く。「これはダンスだ!」

「私の音楽が好まれるとき、彼らのほとんどは私の音楽が”瞑想的”だから好きだという。でも、私は自分の音楽が瞑想的だとは思わない。」フェルドマンは続ける。「ジョン・ケージと私は現在、本当に音楽を書いている唯一の存在だ。私達はそれ以外に何もしていない」

「シェーンベルクはドイツ音楽の伝統をさらに100年間伸ばしたいと言っていた。私は音楽をあと10年間でもいいから生き延びさせたいと願っているだけだ。」フェルドマンは続ける。「戦争はごめんだ。でも、私は戦争を止める仕組みを作りたいとは思わない。それは核兵器のようなものだから。」

「ジャスパー・ジョーンズとベケットは、まったくナルシストではない。」フェルドマンは断言する。「そこには何のエゴイズムも感じないはずだ。それと同時にそこには完璧な、他では得ることの出来ない芸術的体験があるのを感じるはずだ。もちろん矛盾している。でも、その矛盾となら私は一体になれる。」

「私の音楽は静かだ。私の音楽は長い。私に未来はない」フェルドマンは続ける。「私の音楽の影響を受けたという人は、その音楽はどこから来たものでも、どこへ行くものでもないという考えでそう言っているに過ぎない。私は議論をするには年を取りすぎた。私は文化の側にとどまりたい。すべては形式なのだ。」

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サミュエル・ベケットの名前を不滅にした戯曲『ゴドーを待ちながら』は、その出版と同じ1952年に作曲、初演されたジョン・ケージの『4分33秒』と並んで、戦後前衛の究極の作品として、現在に至るまで、その影響が及ばざるところのない傑作である。

『4分33秒』と『ゴドーを待ちながら』
二つの作品がなんとなく似ていると思ってしまうのは、どちらもずっと待っているだけ、というイメージがわくからかもしれないが、どちらもそのような作品ではない。

『4分33秒』は、その時間が過ぎるのを待つための作品ではなく、ひたすらに聴くための作品である。

『ゴドーを待ちながら』の登場人物は、待っているのではない。
それでは何をしているのかと言えば、彼らはずっと喋っているのだ。彼らは「考える」と言ってはすぐにそれをぶち壊すし、「行く」と言ってはその場にとどまるばかりで、喋る以外には何もしない。

ベケットが『ゴドーを待ちながら』を書いたのは、画家マティスの娘婿であるジョルジュ・デュテュイとの終わりのない芸術談義の末に、表現の対象も手段も欲求もなく、表現の義務のみが存在する三部作の小説を執筆するに至った、その最中のことであった。

誰かが聞いていようがいまいが、彼らは言葉の限りを尽くして話し続けなければいけない。話し続けるために、彼らはそこにずっといなければいけない。そこにずっと居続けるために、彼らはそこで待っているのである。「行く」といってはとどまり、「待つ」といってとどまる。

彼らはどこにも行かず、何も待っていない。

ベケットはフェルドマンに「なぜ既存のテキストを使わないのか」ときいた。フェルドマンは「それらはすべて音楽を必要としないものばかりだからだ。私が欲しいのは本質的なもの、いま宙を舞っていたばかりのようなもの」と返答した。

「自分の人生にはひとつだけ主題がある」とベケットは言い、言葉を綴ってフェルドマンに渡した。ローマのオペラ座からオペラの作曲を委嘱されていたフェルドマンは、そのベケットの主題を台本として作曲し、1977年に歌劇『Neither』は初演された。

1986年、ベケットの80歳を記念して、ベケットがかつて書き、ラジオのために制作した5つの戯曲を再演するという企画が持ち上がった。ベケットは乗り気であったが、そのうちのひとつ『言葉と音楽』については、そのままの再演は難しいということであった。

従弟の作曲家ジョンとの共同作業で1961年に制作された『言葉と音楽』をベケットは重要なものと考えていたが、そのラジオ番組の出来栄えに、ベケットは全く納得が出来ずにそのままお蔵入りとしていたのだが、いま再びジョンとの共同で作り直す体力が自分にはないとベケットは考えていた。

全く新しく音楽を書いて貰えるなら良い、とベケットは言い、『Neither』の作曲家モートン・フェルドマンの名前をあげた。フェルドマンは非常な熱意と、ぎこちない謙遜の態度をもってこれを快諾した。「難しい作業になる」とフェルドマンは言った。

フェルドマンは1年をかけて『言葉と音楽』の音楽を書いた。それは時間との戦いでもあった。「いま書いている音楽について、説明できることは何もない。私は書くことしかできない」フェルドマンは言った。「これはメタファーの作品ではない。」

1986年の11月に作曲の作業はほぼ終了し、新たなラジオ番組『音楽と言葉』の録音は翌年の3月に決定した。比類の無いベケット俳優であるデイビット・ワーリロウが「言葉」の役、アルヴィン・エプスタインが「鳴き声」を担当した。指揮者と演奏家に楽譜が届けられたのはレコーディングの1週間前のことであった。

1987年3月9日 場所はNYのRCAスタジオ。フェルドマンはリハーサルとレコーディング・セッションの全ての時間に参加して熱心な共同作業を繰り広げ、出演者とスタッフ全員がそれに応える形で、二日間にわたる録音作業は全て滞りなく進んだ。最後の1時間、ほぼ完成を見届けたフェルドマンは帰りの飛行機に間に合うことに安心して、コーヒーを飲みながら番組プロデューサーのインタビューに応じた。

「15分だけ」とプロデューサーは言った。「15分も話すのか。長いな…」とフェルドマンは答えた。そうして話を始めたフェルドマンは、言葉をほとんど途切らすことなく話し続け、1時間以上が過ぎ、スタジオの終了時間を超え、インタビューを録音するテープも使い果たし、それでもフェルドマンは話し続けていたという。

自宅に帰ってすぐ、フェルドマンは23の奏者のための『サミュエル・ベケットのために』を書き上げた。楽譜の最後には「1987年3月29日」と書いてある。そして、最後の作品となるピアノ四重奏に取り掛かった。

「1987年5月28日」と、その最後の作品『Piano,Violin,Viola,Cello』の楽譜の最後には書いてある。モートン・フェルドマンは膵臓癌を宣告され、3カ月の闘病ののち、9月3日に死んだ。その2年後、1989年の11月9日にベルリンの壁が崩壊。翌月12月22日にサミュエル・ベケットが死んだ。

2019年はサミュエル・ベケットの没後30年にあたる。

『ゴドーを待ちながら』と同じ時期に書かれ、ベケットの最重要作品といわれる三部作『モロイ』『マーロウは死んだ』『名付けえぬもの』の日本語訳は、いずれの絶版のまま、言葉は失われようとしているのだろうか。彼は喋り続けている。

「ここはまったくしんと静まり返っているといっても、完全無欠の静寂ではない。この場所でおれに聞こえた最初の物音を覚えているが、そいつがその後もたびたび聞こえてきた。こんなことを言うのも、たとえ話の辻褄を合わせるためだけにせよ、おれがここにいるのにもはじまりがあったとしなければいけないからだ。」

「肉体もなければ魂もないあいつ、…彼は沈黙からできている、おみごとな分析じゃないか、彼は沈黙の中にいる、彼をこそ探さなくちゃいけないんだ、彼にこそならなくちゃいけないんだ、彼についてこそ語らなくちゃいけないんだ、…」

「沈黙の中へ目ざめるんだ、二度と眠らないんだ、それがおれなんだろう、あるいはもう一度夢を見るんだ、沈黙の夢を、夢の沈黙を、ささやきに満ちた、わからん、どうせ言葉じゃないか、二度と目ざめないんだ、これも言葉じゃないか、言葉しかないんだよ、続けなくちゃいけない、」
 ― 白水社刊、ベケット『名付けえぬもの』より

モートン・フェルドマンの音楽を 今日 誰が聴いてくれるだろうか。
私は ほとんど聴くことが出来ないだろう。私が聴くことの出来ないところを 誰かに聴いてもらわなくてはいけない。少しでもいいから 誰かに聴いておいて欲しいと思う。

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2019年4月29日(月・祝) 20:00開演
「モートン・フェルドマン」 – 終りの音楽 –
ピアノ: 若林千春
ヴァイオリン: 佐久間聡一
ヴィオラ:小峰航一
チェロ:福富祥子
http://www.cafe-montage.com/prg/190429.html