レーガー元年

年号が変わると、あれだけ話題になったのだから、この広い世界、自分が言う前に誰かが言うにきまっている。そう思いながら、これまで息を潜めて待っていたところ、なんと誰も言わない。だから、自分で宣言することにした。

今年は レーガー元年である。

「ドイツの新しい音楽における最大の人物の一人であり、かつ最大の難問のひとつ」とシェーンベルクの弟子であったヴェレスはレーガーについて述べているのだが、果たして何をもって最大の問題と彼は考えたのだろうか。

レーガーの音楽は、いまだにいかなるカテゴリーにも収まらず、その聴き方について誰も言い当てることが出来ないという点で、あらゆる言葉が消費し尽くされていかなる表現も空虚と化したかのように見える現在において、いまだに強固に守られて存在する最後の砦の一つである。

ある評論は、レーガーがブラームスの後継と言って海に墜落し、またある評論は、レーガーはバッハ、もしくはワーグナーの末裔だと叫ぶと同時に落石にあたって息絶えた。あるものはレーガーは保守的だと言い、またある者はレーガーに革新性を求めた。そして、誰も生きて帰らなかった。

レーガーは、大抵の先鋭的な芸術家の活動がそれなしにはあり得なかったパトロンを持たなかった。当時ドイツにおける中流階級が共有していた教養の高さを彼は味方につけた。レーガーは彼らに直接、演奏や教育活動、そして文筆活動を通して広く訴えかけ、若くしてドイツ楽壇における最高峰に登りつめた。

ビスマルク以降、第一次大戦に至るまでのヴィルヘルム体制の中で続いた、伝統の拡張と革新性の両立への動き、その緊張がドイツの文化的風土に呼応して震えている間、レーガーの音楽は求められるあらゆる引力の中心にあって、だんだんに大きくなると同時に、物事の中心に至る透明の度を増していった。

和声の拡張がほぼ限界に達し、バッハに戻ることで現代の音楽の立ち位置を見定めようとしていたシェーンベルクの目に、和声の発生から崩壊までを軽々と同列に扱い、まさにバッハのように!次から次へとフーガを書くことの出来る唯一の作曲家レーガーの存在は、ひとつの奇跡のように映っていた。

調性の問題はレーガー一人によって完全に克服されてしまった。音楽はこれ以上に透明になることが出来ない。そこでレーガーの心臓は活動を止めた。1916年、レーガーはまだ43歳であった。誰もレーガーの次元で作品を書く事は出来ない。バッハがそうであったように、レーガーにも後継者は現われなかった。

レーガーの音楽は、今そこで鳴り響いた、と思うと同時に姿が見えなくなる。光の屈折や分解と同じように、音楽そのものを分析することは出来る。でも。レーガーの音楽がなぜ目に透明に映るのかということについて、語られた言葉があっただろうか。それは音楽の美について語ることと同じであるはずなのに。

かつては古いとされたものが、いまや新しいとされ、いまだにその新しさが更新され続けているものの一人がバッハであるとすれば、レーガーはちょうど今から新しくなるのである。
レーガー元年。空前のレーガーブームがやってくる。

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R1年5月23日(木) 20:00開演
「無伴奏ヴィオラ」
ヴィオラ: 小峰航一
http://www.cafe-montage.com/prg/190523.html

R1年5月25日(土) 20:00開演
「シャコンヌ」
ヴァイオリン: 渡邊穣
http://www.cafe-montage.com/prg/190525.html