フェリックスの遍歴時代

モーゼス・メンデルスゾーンがレッシングの思想を代弁する形で、長くほぼ禁書の扱いであったスピノザを復活させたことが、それまで確かにあったと思われた、時代の記憶の多くを消滅させた。スピノザを巡っての論争の末、詩人たちは、神と自然を歌う新たな道を探し始めた。

同じ頃、シェイクスピアが復活させられた。
ヘルダーとの運命的な出会いの翌年の1771年、ゲーテは「シェイクスピアの日へ」そして「ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン」を書いた。シラーそしてシュレーゲルへと急速に時代が進む中で、さらにスピノザ問題とギリシャ問題が束になって彼らに襲い掛かってきた。その横をヘルダーリンとヘーゲルが通りがかり、腰を据えた。

ロマン派は概念上のルネサンスそのものであった。確かにそこにあったと思われた現在は、悉く過去の渦に呑み込まれていった。ヘーゲルは「ソフォクレス、ダンテ、シェイクスピアのような芸術家は今日もはや現われない」と芸術の終了を宣言。彼はベートーヴェンには見向きもせず、ロッシーニばかりを聴いていた。

一人の天才がこの世を去った時、そのような天才がそのあとにまた誕生するという保証はどこにもない。芸術が天才を必要とする以上、芸術はいつの時代にもすでに終わったものであるというヘーゲルの主張は至極もっともなことで、そのような喪失感を伴わないものは芸術ではないと断じたのである。

ヘーゲルに限らず、いまだ生きて作曲を続けていたベートーヴェンの作品に対して、人々が喪失性を見出すことはなかった。それはまだ芸術ではなかった。ベートーヴェンの残した強烈な喪失感が芸術の象徴となってロマン派を覆いつくすまでには、その死後かなりの時間を要したのである。

シューベルトの死後すぐ、1828年から翌年にかけての冬、フェリックス・メンデルスゾーンはベルリン大学でヘーゲル教室の席に座り、ヘーゲル自身がまさに芸術の死について語る講義を聴いていた一人であった。ヘーゲルが芸術の「ネズミのような死」について語っていたのを、フェリックスはずっと覚えていた。

1829年3月11日、超満席となったベルリン・ウンターデンリンデン劇場におけるマタイ受難曲上演の指揮台にはフェリックス・メンデルスゾーンが立ち、客席には王族のほか、ハイネにシュライエルマッハー、スポンティーニにツェルターそしてヘーゲルの姿があった。

受難曲の復活公演は成功裏に終わったが、その意味するところが世の中に知られるのはまだまだ先の事であった。翌年、フェリックス・メンデルスゾーンはルターのアウクスブルク信仰告白300年の為の『教会交響曲』を書き上げたが、ベルリンの街がフェリックスの音楽を受け入れることはなかった。

フェリックスは『教会交響曲』の中で、マタイ受難曲をなぞると同時に、50年後のパルシファルとブルックナーのワーグナー追悼までもを予言していたのに、それがダメだったのだろうか…。失意のフェリックスはベルリンをあとにして長い旅に出た。

フェリックスはデッサウに「水車屋」の詩人ミュラーの未亡人を訪ねた後、バッハの街ライプツィヒに立ち寄って『教会交響曲』の初演の手筈を整えてから、1830年5月ワイマールのゲーテを訪問した。話題はシラーからスタンダール、ヘーゲルにまで及び、フェリックスは近況をピアノでゲーテに語り聞かせた。

ベートーヴェンの交響曲 第5番について「ここには何の感動もなく、ただ脅かしと尊大があるだけだ」というゲーテの言葉をピアノの前に座って聞いたフェリックス・メンデルスゾーンは、その場で『教会交響曲』の手直しをしてライプツィヒに送ったが、予定の期日に間に合わずコンサートはキャンセルされた。

1830年9月、ウィーンに到着。巨匠の記憶を辿ってツェルニー、グリルパルツァーやギロヴェッツにも会ったが、ベートーヴェンの作品を演奏をする人を、フェリックスは一人も見つけることが出来なかった。彼はベルリンに書き送った。
「ベートーヴェン、モーツァルトも、ハイドンも、ここにはもう誰もいない…」

シュタードラー牧師を訪ねてハイドンがオラトリオの作曲に使ったピアノを見せてもらったり、フランツ・シューベルトのフーガの先生であったゼヒターとカノン合戦をしたりする中、有名な収集家アロイス・フックスに見せてもらった、バッハからヘンデル、モーツァルト、ベートーヴェンに至る貴重な自筆譜の数々にフェリックスは目を輝かせた。フックスはその中からベートーヴェンのスケッチ帳をフェリックスにプレゼントした。

ピアノソナタ 第30番、荘厳ミサ曲、そしてディアベリ変奏曲の下書きを含む、ベートーヴェンのいわゆる『ヴィトゲンシュタイン・スケッチ帳』はそのようにしてメンデルスゾーンのコレクションに追加された。10月にフェリックスはイタリアに向かった。その翌月、ショパンがウィーンに到着した。

11月にローマに到着したフェリックスは、ゲーテの「イタリア旅行」の史跡をめぐって熱狂した。翌年3月、ローマ賞を受賞したベルリオーズがローマに到着、大画家ヴェルネの紹介でメンデルスゾーンとベルリオーズは出会った。
ロマン派という喪失の物語は猛烈な速度で進んでいった。
もう戻ることは出来ない。

1831年12月9日、イタリアからミュンヘンを経て、フェリックス・メンデルスゾーンはパリに到着し、リストそしてショパンとの邂逅を果たした。そこからの歴史はより明らかになっているけれど、メンデルスゾーンの物語はこれからもまだ続けたいと思う。

旅の間ずっと携えていた『教会交響曲』が初演されたのはフェリックスが長い旅からベルリンに戻った1832年の事であったが、それきりフェリックスの生存中には演奏されず、死後に交響曲 第5番として出版され、いまでは「宗教改革」の名で知られている。

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’19年6月28日(金)&29日(土)
「弦楽五重奏」
– F.メンデルスゾーン 生誕210年 –
ヴァイオリン: 島田真千子
ヴァイオリン: 杉江洋子
ヴィオラ: 小峰航一
ヴィオラ: 金本洋子
チェロ: 城甲実子
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