ヅメスカルというのはベートーヴェンの友人のことだ。
モーツァルトより3歳若く、ベートーヴェンがウィーンに来た頃から死ぬまで、喧嘩別れもせずずっと近くにいた、数少ない貴重な存在だ。
何かがうまくいったときも、うまくいかなかったときも、ベートーヴェンはよくヅメスカルに手紙を書いた。
チェロをおそらく上手に、でも、シュパンツィヒのカルテットには入れてもらえないくらいの腕で演奏したらしい。跳躍があるたびに音を外したのであろうヅメスカルと一緒に演奏するために、ベートーヴェンは「眼鏡必須の二重奏曲」という曲を書いた。ベートーヴェンが弦楽四重奏曲を完成させたときも、おそらく演奏には少ししか参加させてもらえず、でも一番初めに全6曲を聴くという栄誉は勝ち取った。その6曲の中には「眼鏡必須」の曲の調性をひっくり返して、ハ短調に生まれ変わった第4番の四重奏曲も含まれていた。嬉しいと思ったのか、ヅメスカルは早速チェロ友達のブルンスヴィックに「彼の6つの弦楽四重奏には、あなたにも大いに気にいるでしょう」と書き送っている。
ブルンスヴィックとは、ハンガリーの貴族で美術館や図書館が家にあるような大金持ちで、のちに7歳のヨーゼフ・ヨアヒムのパトロンにもなったような歴史上重要な人物。ベートーヴェンは「熱情」ソナタを彼に捧げている。
ベートーヴェンはヅメスカルにも何か献呈してもよかったはずだが、「眼鏡必須」の一件以来、ヅメスカルはベートーヴェンからなにももらえなかった。
ベートーヴェンはパトロンとなって自分に年金をくれるらしいリヒノフスキーを称賛して、その返す刀でヅメスカルをシュパンツィヒと並んで「貧乏でエゴイスト」だとひどい悪口を言ったりもしている。
... so elenden Egoistischen Menschen wie die Zmeskal, Schuppanzigh... (1801)
でも、リヒノフスキーとベートーヴェンが喧嘩別れした後、ベートーヴェンは新しい室内楽作品の試演場所として、ヅメスカルの家をよく選ぶようになった。
家は貸してもまだベートーヴェンから何ももらえてなかったヅメスカルにもチャンスが来た。エステルハージの依頼で書いたハ長調のミサ曲を、はじめはナポレオンに捧げようとしていたベートーヴェンが、急に「ヅメスカルに献呈しよう」と言い始めたのだ。
ナポレオンではなく…私に… !!
と、ヅメスカルが喜んだかどうかはわからぬまま、ミサ曲はベートーヴェンの新しいパトロンとして登場したキンスキー伯爵に捧げられた。
ヅメスカルは真剣に怒ったかもしれない。ヅメスカルには軽口ばかりをたたいていたベートーヴェンも、少しはヅメスカルに同情したかもしれない。
ベートーヴェンは「厳粛な」と題した弦楽四重奏曲を書いて、ようやくヅメスカルに献呈した。
“Quartetto Serioso”と題された弦楽四重奏曲はヘ短調で書かれた。
ベートーヴェンが誰かに作品を献呈するときには、いつも何かしらの物語がある。この作品についても、何かあるだろうと思って色々調べていたところ、ひとつ、とんでもない事実があるのに気が付いた。
なんとヅメスカルは、かつて書かれた弦楽四重奏のなかでも最も重要な曲集であるハイドンの作品20の6曲を、ハイドン本人から献呈されたその人だったのである。
ハイドンの作品20の重要性については、あらゆる方向から語りつくされているからここでは書かない。でも、この曲集がヅメスカルに捧げられたという事、そして、この曲集の中でも最重要といわれる第5番と同じヘ短調で書かれた「厳粛な」弦楽四重奏曲が、ベートーヴェンから満を持してヅメスカルに捧げられたことは、おそらく重要な意味を持っているに違いない。
その物語は、おそらくこれから書かれることになるのだろうか。その中には、「厳粛な」第4楽章冒頭をブラームスが自身のヘ短調のピアノ五重奏曲に、そのまま使用したことの意味も書かれているかもしれない。
ベートーヴェンの”気安い”友人と紹介されることの多いヅメスカルは、弦楽四重奏という19世紀を覆いつくす重要な分野における、最も重要な人であったということだけで、いまは話を終わろうと思う。
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2020年11月14日(土) 20時開演
エンヴェロープ弦楽四重奏団 - vol.11
ベートーヴェン:弦楽四重奏曲 第11番 ヘ長調 op.95 “Serioso”
フランク:弦楽四重奏曲 ニ長調