交響曲「ザ・グレート」

1839年の3月21日に交響曲「ザ・グレート」はフェリックス・メンデルスゾーン指揮のゲヴァントハウス管弦楽団によって初演された。
パート譜はシューマンが前年にウィーンから送り付けてきたシューベルトのページの順番が不揃いなままの自筆譜から、ただでさえ多忙のメンデルスゾーンが暗号を解くように並べて書き起こした。

シューマンはメンデルスゾーンとは別に出版社ブライトコプフにあてて、「シューベルトの手による未出版の交響曲が4つか5つかある」と書き送り、「お望みであれば私が4手ピアノ版に編曲する」と売り込みをかけていた。

”Die Symphonien könnten Sie im vierhändigen Arrangement erscheinen lassen welcher Arbeit ich mich gern selbst unterziehen würde.” - 1839年1月6日 ブライトコプフ宛書簡

1839年の初演時に、シューマンはまだウィーンから戻っておらず、メンデルスゾーンはオーケストラがすぐには演奏できなさそうな箇所を省いていたそうだ。
その年の年末に、メンデルスゾーンは今度こそ完全版の初演を目論んでオーケストラリハーサルをはじめた。シューマンはこの作品を実際に聴いたのはこのリハーサルの時のことであった。彼はクララ(未婚)に法外な手紙を書いた。

「この長さと言ったら、4分冊の小説のようで、ベートーヴェンの第九よりも長い。私はとても幸せだし、君が私の妻でいて、しかもこんな交響曲を書くことが出来るという以上の望みは私にはない…」

"… und diese Länge wie ein Roman in vier Bänden, länger als die neunte Symphonie. Ich war ganz glücklich und wünschte nichts, als Du wärest meine Frau und ich könnte auch solche Symphonien schreiben." 
 - 1839年12月11日 クララ宛書簡

シューマンは他にもシューベルトの最後のピアノソナタなど、シューベルトの数多くの未出版作品を世に送り出したが、のちに「ザ・グレート」と呼ばれることになるこの交響曲の普及には、メンデルスゾーンと結託して熱心に取り組んだ。1840年にオーケストラパート譜と同じくしてブライトコプフ社から出版されたピアノ4手版が、前年にシューマンが「自分の手で」という売り込みが実現したものかどうかはわからない。ともあれ、この作品のスコアに触れることが出来たのが、当時パート譜の制作に没頭していたメンデルスゾーンと、その提供者たるシューマン以外に誰が存在したのであろうかと考えると、この4手版が初演に関わる貴重なドキュメントである可能性が高いと言っていいのではないか。
シューマンは1840年に今度は自身の「新音楽時報」に記事を書き、その中でクララにあてた「4分冊の小説に比する」という表現を繰り返して、さらに一言「天国的な長さ」と付け加えた。

メンデルスゾーンはこの交響曲の「延々と続く三連符」を弾いてもらうようにと、弦楽奏者たちに頭を下げる日々の中で、ようやく実現すると思ったら演奏の直前に火災報知器(あったらしい…)が誤って鳴ってしまい、ホールから人影が消えて公演が延期になったり、訪問先のイギリスでもやはりオーケストラ楽団員の反発にあうなど、メンデルスゾーンの生前にはあまり演奏される機会に恵まれなかった。
そのような中、1840年出版の4手版がどれだけ普及していたかはわからない。

"Sag' ich es gleich offen: wer diese Symphonie nicht kennt, kennt noch wenig von Schubert…"
 - 1840年3月「新音楽時報」

「この交響曲を知らないということは、シューベルトについてはまだほとんど知らないということだと、いっそ断言してしまおう」とシューマンは書いたけれど、この交響曲について自分はまだまだわかっていないことがたくさんあるのかも知れないと、1840年ピアノ4手版を聴きながら考えていた。
フォーレがバイロイト詣でをしたあとでメサジェと共作した「バイロイトの思い出」という、どこかパロディめいたピアノ4手作品があるのだが、シューベルトがそのような「思い出」をこの交響曲の中に書きとめていたのではないかと、ピアノで演奏されることによってはじめて気が付いた箇所がいくつもある。それはすでにブラームス流の「思い出」の形式とも思えるのだ。

この交響曲「ザ・グレート」以降、あたかもまだ生きているかのように次々と「新作」が発表され、メンデルスゾーンの死後も、シューマンの死後も、シューベルトは大作曲家としての地位をますますと高めていくこととなったのであった。

 

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2022年5月13日(金) 20:00開演

「ザ・グレート」– F.シューベルト 

ピアノ:佐藤卓史
ピアノ:松本和将

https://www.cafe-montage.com/prg2/220513.html

あの時の、死の行方

1824年5月のウィーンでウムラウフによる指揮、作曲家の臨席の中、ベートーヴェンの交響曲 第9番 ニ短調の初演が行われた。
翌6月、シューベルトはニ短調の弦楽四重奏曲を書き始めた。

パパゲーノは、首を吊った時に死んだのではなかったか。
ファウストは、メフィストフェレスと契約をした時に死んだのではなかったか。

契約に向かうファウストは言った。
「己の心を人類の心にまで拡大し、 “あの時の、死の行方” の続きを読む

シューベルト、こちらへ

Du mußt es dreimal sagen.
「おはいり」、とファウストは3度言わなければならなかった。
オペラ「ルル」原作の冒頭の長台詞においても、ヴェーデキントは「おはいりなさい」と3度、猛獣使いにいわせている。

ウェーバーの「舞踏への勧誘」でも、大変に長い3度目の「おはいり」のあと、ようやく舞踏会への入口が開かれる。

ベートーヴェンも2度目の脅しつけるような「おはいり」のあと、3度目の「おはいり」が長く、そのまま追っかけ合いの舞踏会に突入する。

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ショパン、ベートーヴェン

ショパンには2歳年下の妹がいた。

名はエミリア。音楽のショパンに対して、文学のショパンともなるべき才能を若くして示した彼女は、兄フレデリクとともに「文芸娯楽協会」を立ち上げ、会長に就任した兄の秘書を務め、演劇の台本を書いて共に演じた。

兄との共作「失策、あるいは見せかけのペテン師」では、迫真の演技で市長役を演じる兄フレデリクの横で、エミリアは作者役として座っていた。エミリアは人を笑わせることが得意で、病弱な兄とは違って常に快活であったのに、14歳にして結核にかかり、そのまま回復することなく2か月後に死んでしまった。 “ショパン、ベートーヴェン” の続きを読む

二つの歴史、モーツァルト

モーツァルトの音楽には二つの歴史がある。
一つは、それが作曲者の手によって書かれたことの歴史
そして、それらが世に知られるようになったことの歴史

1775年にミュンヘンで一息に書かれた6つのピアノソナタは、その為にお金を払う人もなく、長らくはまったく知られることのなかった作品であった。第1番から第5番までのソナタが出版されたのはモーツァルトの死後、1799年のこと…その前年にベートーヴェンは「悲愴」ソナタを書いていた。 “二つの歴史、モーツァルト” の続きを読む