ブラームスの運命

入る前にノックしてくれる礼儀正しい運命ではない。
バーーーーーーーン!!!
運命はいきなりドアを突き破り、床を持ち上げ、天井を払い落とす。
ダダダダーーーーーーン!!

「話はそれからだ」 ブラームスは葉巻を薫らせる。

シューマンが後に嬰ヘ短調ソナタに転用した歌曲をピアノで弾きながら、ブラームスは涙ぐんで言った。「シューマンはこれを十八の時に書いたんだ。必要なものは才能で、それ以外何の役もたたない。」

ウィーンに来た若い作曲家と街を歩きながらブラームスは、自分たちがいかに神聖な場所に立っているかを力説した。≪後宮からの逃走≫が生まれた家の前で立ち止まり「ここが”神の眼館”だ」といい、別の家では「敬礼しなさい。ここで≪フィガロ≫が書かれたんだ」と言った。

「チャンスを逃したのさ。その気があった時期に、ある人に申し込めなかったんだ。…結婚する気満々だったころ、作品は会場でブーブーやじられるか、さもなきゃ氷のように冷たい反応だった。でも…作品には絶対の自信を持っていた。」とブラームスは言った。
「これでよかったんだ」

1885年、ブラームスは新しく出版されたシューベルトの交響曲全集について「こんな若いころの作品が印刷されるなんて、悔しいじゃないか。僕は二十年前に全部写譜したんだ。」といって、さらに「何でもかんでも印刷されるのがいいとは思わんね。」と付け足した。

同じ1885年の4月、ブラームスは音楽家協会の設立記念祝賀会で最晩年のフランツ・リストに会っている。遠慮がちだったブラームスがリストに挨拶するとリストはその邂逅を喜び、あとで今度はリストがブラームスのところに行って二人きりでしばらくおしゃべりをしていたという。

翌1886年の春、ブラームスとクララはお互いに交わした手紙を交換して、自分が残して置きたくない手紙をすべて破棄した。同じ年の7月31日、フランツ・リストがこの世を去った。同じ年の8月、ブラームスはスイスの避暑地でハ短調のピアノ三重奏曲 作品101を書いた。

リストはハ短調の作品をほとんどといってよいほど書かなかった。

ひとつはWilde Jagdと呼ばれる練習曲

そしてもう一つは、ベートーヴェンの交響曲第5番のピアノ版。

いずれも1837年、リストが26歳の時の仕事である。

そしてもう一つあった
バッハのプレリュードとフーガ S.462-3
ここはバッハのオリジナル版をオルガンで

これはブラームスがリストを訪れる前の年、1852年に出版された。

ブラームスの8月の創作の中にフランツ・リストに対する思いの何かが見えるのではないかというのは、単なる憶測にすぎない。ただ、ブラームスがどのような心境にある時期の作品であるかということ、そしてこの作品が他でもないハ短調で書かれていることの意味を知りたいと思うのだ。

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2018年4月11日(水) 20:00開演
「ピアノ三重奏」― シューマン&ブラームス
ヴァイオリン: 上里はな子
チェロ: 向井航
ピアノ: 松本和将
http://www.cafe-montage.com/prg/18041011.html