シューマンの古典作品

シューマンに何が起こっていたのか。
1839年、ロベルト・シューマンはウィーンを訪れて、シューベルトの後期作品を発見した。それは自身が発掘した交響曲D944であり、その年に初めて出版された最後の3つのソナタであった。それらの作品は、シューマンがこれまでに知っていたシューベルトの姿とは違っていた。
そこにはモーツァルトがいた。

シューベルトがロマン派によってどのように吸収されていったかは、その作品の出版の歴史を見なくてはいけない。1839年までに、彼らに知られていたシューベルトのピアノソナタはたったの3曲。つまりD845-D850-D894だけであった。この認識なしにはロマン派の形式については考えることが出来ない。

シューベルトの最後の3つのソナタの中にシューマンが何を聴いたか。1840年以降、彼は結婚し、ウィーン古典音楽の研究に没頭した。モーツァルトがどのように形を変えて、ベートーヴェンそしてシューベルトの後期の作品に取り込まれているかを観察し、その延長上にシューマンは自らの作品を置いた。

「ファウストの音楽はモーツァルトが書くべきであった」
1836年に出版された書物の中で、ゲーテがエッカーマンに語っているのをシューマンが読んだかどうか、1844年、シューマンはファウストの音楽をその最終シーンから書き始めて、すぐに行き詰った。

シューマンはゲーテについて「文学におけるモーツァルト」という少し変わった評価を下してメンデルスゾーンに披露していたが、ともかく「ファウスト」の音楽は彼にとって最重要な課題となった。彼が色々と不思議な言動を繰り返すようになったと言われるのはこの後のことである。

「ファウスト」を一時中断していた1847年の1月、交響曲 第1番とピアノ協奏曲を、その故郷であるはずのウィーンに持ち込んでコンサートを開いたものの、客入りはひどく、評価も冷たいものであった。「恩知らず」と憤るクララを「あと10年すれば」とロベルト・シューマンは震える手で慰めていた。

その半年後、1847年の6月にシューマンは長男を1歳半でなくした。ニ短調 ピアノ三重奏曲 第1番はその3か月後、9月のクララの誕生日のために書き上げられた。ここに込められた思いには、彼が自身の音楽を古典芸術の延長に置いたことの喜びと苦悩が見え隠れしている。

ベートーヴェンとシューベルト、そして同じ1847年に死んだメンデルスゾーンの全てをこの中に聴くことが出来るのだけれど、そこにモーツァルトのニ短調協奏曲 K466 第3楽章 をこの第1楽章に重ねることで、シューマンがクララと共に辿った道のりの長さを思い知った。

Mit Energie und Leidenschaft 「エネルギーと情熱をもって」と今では書かれているシューマンのニ短調ピアノ三重奏曲の第1楽章の冒頭、自筆の初稿ではこう記されていた。
Nicht schnell, aber mit Leidenschaft
「急がずに、でも情熱をもって」

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2018年4月10日(火)&11日(水) 20:00開演
「ピアノ三重奏」 ― シューマン&ブラームス
ヴァイオリン: 上里はな子
チェロ: 向井航
ピアノ: 松本和将
http://www.cafe-montage.com/prg/18041011.html